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気ままにエッセイ

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日常のなかで、ぼんやりと考えたことを自由に書いているマガジンです。
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日常 #1

2024/5/19 午前中は美容院へ 朝8時半ごろ、頭痛を感じながら起きました。低気圧でしょうか。 頭痛だけではなく、昨晩友達との夕飯でたくさん食べた麻辣の火鍋がお腹に効いているようで、結構な腹痛を感じてトイレに駆け込みます。(カバー写真は、火鍋屋さんに向かう道中の万世橋というところで夕暮れが綺麗だったので、撮りました。) 朝10時から美容院の予定が入っていたので、腹痛に耐えながら身支度をします。この時間に予約を入れたことをちょっと後悔もしましたが、朝一から他人が関係する

中途覚醒と冬の朝

朝つい先週まで30度を超えるような暑さだったのが、朝や夜は暖房が必要かと思うぐらいまで冷え込むようになった。窓の外から聞こえてくる遠くの車や線路の音が混じったような静かな遠音と、みずみずしくも冷え込んだ空気を一緒に感じられる季節が好きだなと思う。 三連休初日の朝、変わった夢で5時ごろに中途覚醒した。かつて高校生のときに思いを寄せていて、そのためにほとんど上手く話せなかったような人と、「最近はどうしているのか」と無難な会話を達者な様子で交わしている夢だった。ふと目が覚め、隣

書き続けます

書き始めること、書くという修行について お久しぶりです。社会人1年目に突入したということもあって、あまりnoteを書くための時間を取れていませんでした。 書き続ける、ということはとても難しいことだな、と思います。完璧主義、といいますか、自分をなるべくクールに、かっこよく見せようという邪念を追い払うことが必要な気がします。大げさにいうと、書きあげた文章の節々に散りばめられかねない、自分の愚かさや過剰さ(=イタさ)をさらしても構わないのだ、という覚悟がいります。私のような素

弱くて強いひとになる

大学受験でちょっとした成功体験があってから、もう自分は「弱さ」とは無関係の人間だと勘違いしてしばらく生きていた。未だにそんなこと引きずっててダサいやつだなと思われるかもしれないが、僕にとっては、ずっと憧れていた「強い側」の人間になれた!と思えた、初めての体験だった。もちろん「強さ」は経済的な話でもあるが、ここではもっと実存的なレベルを指していて、世界の主人公でありたいはずの自分と、自分は一介のモブキャラに過ぎないという現実のギャップを克服したような錯覚を覚えた一時期だった(全

自由度が高いときこそ習慣で自分を固定してメンタルを安定させる

高校や大学,資格などの受験期って大変ではありますが,多くの人が(きっと)メンタルはそれほど悪くならない気がしていて,理由は目に見えるコツコツとした毎日の積み上げがあり,それが精神的な安寧と自信に繋がるからだと思っています.進むべき道が,「チャート式」(航海図)に示されている安心感は大きいです. 対照的に,大きすぎる「自由」が与えられ,その「自由」をもてあまして退廃すると,人は無力感や自責感から心を病むような気がしています.院生の話でいえば,(これは私的な憶測で間違っている可

賢く・物知りに・器用になる欲望に抗って、不器用さがひらく可能性を信じる

数値的なエビデンスとかは全くなくて、ただの個人的な所感なのですが。 最近、「自分にはこれしかできなかった」系の不器用さが才能に繋がる例をたくさん観測していて、中途半端に色々できてしまうと、かえってベクトルが発散して良くないのでは、という気がしています。例えば、昨今のIT時代に、「プログラミングができなきゃいけない」という欲望に抗うことの重要性とか。 「勉強は選択肢を広げる」なんて言いますが、とんでもないことだと思います。全ては成長も劣化もない、ニュートラルで不可逆的な自己

物事を伝えるには不誠実さを許容する姿勢も必要

ある分野で専門家になればなるほど、その分野の「分かりやすい話」をしづらくなる、ということがあります。その原因を端的にいうと、教科書的な説明が「そうとも言い切れない」ような場面を見かけていくにつれて、説明の歯切れが悪くなっていくからだと思います。 近年、メディアで注目を浴びている成田さんのインタビュー ↓ で触れられていた話について、私も色々と思うところがありました。 例えば、ある分野について分かりやすく組み立てられた、概論的な説明があるとします。「分かりやすい」かどうかは

4-9月の思考記録の寄せ集め

事情あって9月入学・9月卒業という形を取ったので,この時期ですが修士課程を(ほぼ)終えました.研究に没頭していた毎日だったので,社会人になると思考のパターンがいろいろと変わるだろうなと思い,院生の日々に考えていたことを記録した日記の一部を寄せ集めてnoteにしました.一人称や,個人情報に関わる表現は改変しています.私は工学・生物系の研究室にいましたが,哲学や社会学などの人文系の本を読むことが好きという背景があり,どうしてもそうした書籍に影響を受けたような表現が多いです.後から

主体性に関するメモ

高校生ぐらいのときからずっと感じていたが、いつの間にか忘れてしまっていた大事なことを書き直す。受験勉強とか就職活動に直面すると、「主体的」「積極的」という言葉を耳にする機会が増える。「主体性」とは何か、色々と引っかかる部分があるので、ここにメモを書き残しておく。 最初は「欲望に忠実であるさま」が主体性なのかと考えていたが、それだとしっくりこない例がある。 例えば、「学校の宿題に真面目に取り組むさま」と「学校の宿題が嫌なので退学を選ぶ」のどちらが「主体的」か、という問題を考

日常会話の背後にある、言葉にされないものについて

私たちは、私たち自身が思っている以上に、曖昧な概念を並べて日常的な会話をしている。概念から想起される対象が、他の人と一致していることをよく確かめないまま、会話を交わしているのだ。それでも、なんとなく言葉は通じ合ってしまう。今日は、そんな日常的な会話の背後にある「言葉にされないもの」について、実際には何が起きているのか考えてみたい。 「水はおいしい」という主張の奇妙さ一例として、「水はおいしい」という主張を考えてみる。水は、確かにおいしい。それほどおかしい主張だとは感じないは

「しらふ」で文章を書けない

僕がnoteに何かを書こうと決意するときは、だいたい自分の中で「ふつう」の精神状態ではない。どこか精神的に酔っ払っていて、自暴自棄なところがないとできない。それは自分の言うこと為すこと全てが、愚かさにまみれていて、根本的に「間違っている」ような気分がずっとしていて、書くことは自分の愚かさを晒すことに他ならないと感じているところがあるからだ。 しかし、ひとは酒に酔うと、自分の「愚かさ」を晒す覚悟みたいなものができる。日頃、頑張って抑圧して外に出さないようにしている自分の中の「

ひとの写真をみるたびに、世界の眺め方の違いに気付かされる

Instagramを眺めていて、「ああ、自分と比べて、この人たちは風景の写真を撮ったり、他人の笑顔を撮ったりしている。それに比べて自分の投稿は、いつも自分の顔ばかりだ、それも一人の」と感じた。もしかすると、人よりも常に自分のことばかりを考えているのかもしれない。 ラッセルが著書『幸福論』*1のなかで「幸福になるためには自分の内へ内へと意識を向けるのではなく、外側に目を向けよ」といっていたことを思い出す。彼女に、「自分と他人に境界線を引き過ぎ」と指摘をされたこともある。 そ

"上位互換"の存在に頭を悩ませてしまうひと — 存在価値に対する悩みの克服方法

「自分より遥かに優秀だ」と思えるような人と一緒の環境にいて、終始心穏やかでいられる人はあまりいないのではないでしょうか? 私もそのうちの一人です。自己評価は絶対的ではなく普段接する日常世界において規定されるので、「それでもあなた十分頑張ってるじゃない」という親切な励ましも効かず、惨めな気分になるものです。 職業的に必要な最低限の誠実性(研究であれば学問的な誠実性など)は問われて然るべきかもしれませんが、ときおり友人などから間接的に耳にする、行き過ぎた自己否定を助長するよう

「難しい言葉を多用するのは頭の悪い人」は本当なのか

まず、この言説に対しては部分的には同意です。相手に伝わりやすい、分かりやすい言葉を選ぶという配慮ができることは、素晴らしい能力の一つだと思います。しかし、主に以下の二つの点で、僕はこの言説を断定的に唱えることに対して反対です。 1) 相対性に対する無配慮 コミュニケーションは、情報の「発信側」「受信側」の二者間で成り立つ。発信側が「難しい言葉を多用している(ように見える)」原因を、一方的に発信側に帰属すべきでない。「受信側」に原因があるケースも存在する。受信側が単に不勉強で