弱くて強いひとになる
大学受験でちょっとした成功体験があってから、もう自分は「弱さ」とは無関係の人間だと勘違いしてしばらく生きていた。未だにそんなこと引きずっててダサいやつだなと思われるかもしれないが、僕にとっては、ずっと憧れていた「強い側」の人間になれた!と思えた、初めての体験だった。もちろん「強さ」は経済的な話でもあるが、ここではもっと実存的なレベルを指していて、世界の主人公でありたいはずの自分と、自分は一介のモブキャラに過ぎないという現実のギャップを克服したような錯覚を覚えた一時期だった(全てを勘違いできている状態は、ある意味で幸せではあった)。
そのあとに、大学でいくら頑張っても(とにかく何者かになりたかった)、ほとんど全てが空回りし、優秀な周りに永遠に追いつけないことに落胆し、まさに正面から <がんばったら報われるとあなたがたが思えることそのものが、あなたがたの努力の成果ではなく、環境のおかげだったこと> を突きつけられ、受験競争の過程で知らず知らずに内面化していたマッチョ思想を180度転換して「弱さ」を肯定するような思想に変わったのが大学院の初め頃。タモリさんの(真偽は不明)「やる気のあるやつは中心しか見ない」って至言があったと思うけど、皮肉なことに自分から突っ張った力みが抜けて「シラケ・脱力」のモードに入ったら、少しだけ結果を出せるようになった。単に自分に甘くなっただけかもしれないが、色々と自分にも他人にも許せることが増えたのは、自分にとって明らかにプラスだったと思う。周りからすると地味に映る時期だったかもしれないが、後悔はしていない。
でも、「弱さ」に傾きすぎると、やっぱり弊害もある。過去のnoteでも何度か書いてきた。やっぱり結局、継続とか努力とか、口酸っぱくして言われるようなことって本当に大事で、「自分の人生の責任は自分にしか取れない」「インターネットでやさしいことを言っている人たちは、いざ自分が困ったときに助けてくれない」「案外、助けてくれるのは口に苦いことを言ってくれる家族や仕事仲間や友人」っていう発想に返ってきているのが最近、社会人1年目。一般論の話だが、労働はできるだけ「身体=有限性=弱さ」(眠くならない、疲れない、移動時間は無、風邪を引かない、とか)を最小化することを求められる空間なので、環境の変化による影響も強いと思う。けど、自分は一定の他律性のもとで動くことが求められる今の環境はかなり肯定的に捉えていて、時間の使い方がかなり自由だった院生時代よりも、心身ともに健康的に生活できている。社会人は、思っていたより楽しい(disclaimer: depends on 職場)。学生時代は、社会人になったら<人生あがり>だと半分本気で思っていた(まあ、体感的にはもう "余生" ではあるが)。
強さと弱さの二項対立の狭間は、これからも何度か振動し続けるのだろう、と思う。社会的にも、20年ぐらいの単位で振動していて、今は昭和世代の反動を受けて、少しずつ弱さフォーカスの時代になってきてるような。
シンプルな結論は、「何でもかんでも、やっぱり過剰は良くないよね」って話だと思う。悲観や憂鬱を過剰に美化して見えるようなコンテンツもたまに見るけど、最終的には自分の首を絞めてしまうような気がするし、そこに浸る期間はそれはそれで必要として、十分に休めたと感じたら、また時々「頑張れ」って普通に言われるような世界に帰ってきてもいいような気がする(あくまで、「医学的に健康だ」と判断される範疇の場合)。弱さの世界って、すごく強い引力を感じるからこそ、「弱さをアイデンティティにはしない」っていう固い決意というか、Twitterで見たけど「おれはおれの幸せをあきらめない」っていう決意みたいなものが、シンプルだけどすごく大事なことだと思う。人生はきっと短いですからね。
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