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日常会話の背後にある、言葉にされないものについて

私たちは、私たち自身が思っている以上に、曖昧な概念を並べて日常的な会話をしている。概念から想起される対象が、他の人と一致していることをよく確かめないまま、会話を交わしているのだ。それでも、なんとなく言葉は通じ合ってしまう。今日は、そんな日常的な会話の背後にある「言葉にされないもの」について、実際には何が起きているのか考えてみたい。

「水はおいしい」という主張の奇妙さ

一例として、「水はおいしい」という主張を考えてみる。水は、確かにおいしい。それほどおかしい主張だとは感じないはずだ。

しかし、よく考えてみると、この主張にはいくらでもツッコミどころが思いつく。

例えば、「じゃあトイレの水もおいしいのか?」と屁理屈をこねてみせることができる。厳密な論理的命題として考えようものなら、この世界に存在する、ありとあらゆる「水」について「おいしい」かどうかをチェックしなくてはいけない。

では、日常会話において上のような屁理屈をこねる必要がないのは何故なのかを考えてみる。私たちが「水はおいしいね」という言葉を聞くとき、心の中で何を経験しているかを内省すれば、自ずと答えは出る。

まず、「水はおいしい」という言葉を聞いたとき、「おいしい」という言葉から「食べる」や「飲む」という言葉が連想される。この時点で、「トイレの水」などは自動的に水の連想から除外される。なぜなら日常的な経験からあまりにもかけ離れているからだ。

次に、「飲む」という単語から、「飲料水」の表象がありありと想起される。日本に住んでいれば、例えば多くの自動販売機で見かける「いろはす天然水」などをイメージするかもしれない。そして、例えば高校時代に部活後の汗だくの状態で「いろはす天然水」をがぶ飲みし、水をおいしいと感じた経験などを、半ば無意識的に参照する。こうして「私にも水をおいしいと感じた経験がある」という形で、「水はおいしい」という主張に賛同するのだ。

そこに、「全ての水は果たしておいしいのだろうか…?」などという厳密な論理チェックは介在していない。聞き手はあくまで、共感の材料として使える個別的な経験を無意識的に参照しているだけである。

実際には、日常的に「水はおいしいね」という言葉が交わされるとき、相手はレストランや自販機の近くで何らかの飲料水を口にした直後であることが多い。そんな相手の姿を目にしていれば、「水はおいしいね」という言葉から、わざわざ「トイレの水」を連想するのは狂気の沙汰といえるだろう。相手が言葉を発した文脈を深く理解しているからこそ、誤解が発生しないのだ。

信念の対立が起こるのはなぜか

冒頭を読んですでにお気づきの方もいるかもしれないが、インターネットでは、「水はおいしいね」といった人に対して「じゃあトイレの水はおいしくないのですか?」といったツッコミが日常茶飯事に行われている。では、このような事態がなぜ発生するのかを考えてみたい。

結論から述べると、「XはYである(X is Y)」という主張がなされるとき、人によって「Xから想起する対象(個別的な経験)」が十分に一致していないという事態によって、誤解が生じていると考えられる。どういうことか。

ある人が「XはYである」と主張するとき、その人のいう「X」はその人独自の経験によって大きく規定されている。その人は、Xに関わる生きられた経験の数々を参照しながら、帰納的に「XはYである」という主張をまとめ上げている。

例えば、ある人が「人間は"クソ"である」と主張したとする。この主張に賛同しないとしても、私が「君、それは違うよ」と力説したところで信念対立は解消できない。「その人にとって」人間は確かに"クソ"であることがあり得る —— その人の生きる日常的な世界において、その人に対して人間がどのような一面を見せているのか、他人である私は全く知るすべがない。その人の意味する「人間」は、その人の日常世界に存在する「人間」に他ならなず、私はその人と全く同じ日常世界を生きているわけではない。

例えば、その人の見た目や属性などが原因で、その人に対して人間が「クソな一面」を見せ続けているとすれば、その人にとっての「人間」の現れかたと、私にとっての「人間」の現れかたは、全くの別物なのである。その人は、他の人には見えない人間の「アスペクト*」を見ており、ゆえに「人間はクソである」という信念が確信に至ってしまう。

しかしながら、「X is Y」と主張されるとき、「Xの表象としてどんな個別的な経験を参照するか」という過程は無意識的であるが故に、なかなか言葉にされることがない。それゆえに、「X is Y」におけるXが何を指しているのかについて一致を十分に確かめないまま、「X is Yは正しい」「X is Yは間違っている」といった形で議論を進めてしまうことで、対立が起こる。これを解消するためには、その人にとって「Xがどのように現れているのか」をつぶさに調べていく作業が必要になる。

「人間はクソ」という信念を抱かざるを得ない人の信念が変容するためには、その人の日常世界の外側から対立信念を力説するだけでは全く効果がない(単なる事実は人の意見を変えない)。その人にとっての世界の現れかたそのものが変容する必要がある。そのためには、その人の日常世界の内側に入りこむような、積極的かつ継続的な接触が不可欠ではないかと思う(自分の信念が変容した例を踏まえた個人的な感触だが)。

「勉強がつまらない」と嘆く子供に、大人の視点から「勉強は面白いよ」と力説したところで、子供の確信は変化しない。子供の信念が変容するためには、勉強の面白さを子供と一緒に経験しなくてはいけない。

補足
経験には必ず「身体性」が伴う。例えば私は右利きの成人男性だが、左利きの女性が経験する世界と全く同じような仕方で世界を経験することはできない。あるいは小学生の頃に自分が見ていた世界と同じような仕方で、世界を眺めることはできない。例えば私が今、小学校の校庭を訪れれば、全ての遊具が小さく感じられるだろう。私たちは他人の経験について「知る(see)」ことはできるが、身体性を以って「理解する(understand)」ことはできない。

対立の本質的な原因を考えるには

これまでの議論を踏まえると、主張する側の人間として不毛な対立を避けるためにできることは、次のような感じになると思う。

1. ある主張をするとき、主張の背景として「どんな個別の経験を参照しているのか」を意識する。「X is Y」という信念の確信に寄与している、個別の経験や条件をつぶさに記述することを試みる。そして、その経験がどれだけ他の人に適用可能なものなのかを考えてみる。
例)聞き手として、相手の主張の背後で無意識的に参照されている個別的な経験を質問によって探る
2. 伝える相手と文脈をどれくらい共有しているのかを意識しつつ、言葉の文脈依存性を調整する(ハイコンテクスト、ローコンテクストの選択)
例)インターネット上では文脈情報が著しく捨象されること、ゆえに誤解が生じやすいことを念頭におく
3. 個別的な経験を、不用意に拡張して一般化していないかチェックする。
例)「Aさん・Bさん・Cさんに意地悪された」→ 「人間はクソ」ではなく、人間という主語Xを、「Aさん・Bさん・Cさん」という小さめの主語X'に代替する(無意識的な信念を「X is Y」という形に書き起こし、Xをより小さな主語X'に代替できないか考慮する)。

もちろん、これだけで全ての信念対立を解消することには当然ならないが、対立の原因をより本質的に見つめるための一歩にはなり得ると考えている。

本noteに書いた内容は、最近の個人的な関心である現象学とも深く関わっている。今後も勉強を続けていきたい。

*アスペクトに関する補足

同じ絵が複数通りの表象として解釈できる場合、その一つ一つの捉え方をアスペクトと呼ぶ(本来は「相貌」「表情」などと訳されるべき、もっと一般的な用語だと考えられますが、今回は便宜的にこう表現します)。

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rabbit-duck illusion
左側に嘴を向けるアヒルの絵にも、右側を向くウサギの絵にも見える
引用元: https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Kaninchen_und_Ente.png

ウサギとアヒルの例は、ウィトゲンシュタインがアスペクトの説明として好んで用いる例とされている(参考: はじめてのウィトゲンシュタイン)。

「アスペクトが言葉に乗りづらい」という問題については以下の考察がある。


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