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中途覚醒と冬の朝


つい先週まで30度を超えるような暑さだったのが、朝や夜は暖房が必要かと思うぐらいまで冷え込むようになった。窓の外から聞こえてくる遠くの車や線路の音が混じったような静かな遠音と、みずみずしくも冷え込んだ空気を一緒に感じられる季節が好きだなと思う。

三連休初日の朝、変わった夢で5時ごろに中途覚醒した。かつて高校生のときに思いを寄せていて、そのためにほとんど上手く話せなかったような人と、「最近はどうしているのか」と無難な会話を達者な様子で交わしている夢だった。ふと目が覚め、隣で寝ているパートナーを見ては驚き —— その光景がいつものように、であるにも関わらず——、かつてとは取り巻く環境が何もかも変わってしまっていることに驚くのだった。タイムスリップしたような妙な心地を覚えて洗面所に向かいながら、少しずつ「現実感覚」を取り戻していって、ああ、自分は今こんな場所でこんな人間関係で、ということを一つずつ思い出していって、妙な夢の心地から「帰ってくる」のだった。

所詮は自分がつくった物語、と思う。おそらくは実際に現実に起こったであろう場面のほんの断片が、僕の脳内でふと再生される。しかしその断片は、僕以外の誰にとってもさして重要ではない、僕以外の誰からも一生想起されることのない瞬間なのだと思う。その断片は、必ずしも衝撃的で、ドラマチックな一場面ではない。ほんとうにささいな、日常の小さな一場面が、何の脈絡もなく切り取られる。高校の時の学年主任の先生が、こんなことを卒業文集に書いていた。「自らの不用意な発言が、その切り取られる断片の一部にならないよう、常に細心の注意をはらってきた」

「片思い」の危ないところは、勝手に自分の中で作り上げた独りよがりな物語をどんどん増幅させていって、いわゆるビジネスで「すり合わせ」と呼ばれる行為を全く行うことがないまま、どんどん認識がずれていきかねないところではないかと思う。ここで意味する「片思い」とは、恋愛はもちろんだが、思い出の中に生きている他者に思いを馳せること全般といってもいい。かつての友人たちは、僕の記憶の中で「都合の良い他者」にどんどん書き換えられていって、もはや答え合わせなんてしたくない、という感覚すら覚える。美しい青春のままでいて欲しいのだろう。思い出の中に友人を閉じ込めることは、「めんどくさくて、制御不能な生身の他者」を自分の記憶に葬り去ることだ。

他のひとは、昔のことをどのくらい思い出すのだろう。パートナーは、昔のことをほとんど思い出さないらしい。「今が一番たのしい」という。「引越し続きで、変化するのが当たり前だったから。」
僕の好きな「筋トレYouTuber」もそう言っていた。「今が一番ピークだから、過去に戻りたいと思ったことがない」

素敵なことだと思う。僕もそうでありたいと願いつつ、一方でこういう気分に浸っている瞬間と自分が好きだから手放せないだろうとも思う。


変えられない自分とか、うだつの上がらない自分とか、そんなことばかりを考えていた時期がある。大学生の初期、運営として参加していたサマースクールに応募してくる高校生の英文エッセイの中で、一番見かけた文言は、”I want to change myself”である。そうか、自分をみんな変えたがってるんだ、退屈な日常に風穴を開けたいんだ、と感じたのを覚えている。

しかし、目の前には「何者かになる」ことには到底繋がっているとは思えない「現実的なこと」が山ほど広がっている。そしてまた、自分はなんでこんなに絶望してんだっけ、ってなって、フランクルの手記に出てきた「クリスマス」を待ち侘びてたんだろうなってふと思って、「夜と霧」を手に取りたくなって、また本に逃げようとしている自分に気づく。「〇〇さんってインプットに逃げる癖ありますよね」という後輩の声がこだまする。世界のことを俯瞰した気持ちになって、辛い自分でいることから逃げたくなって、空を飛ぶことのできない蛇であることから逃げて、鳥になろうとする。

そうじゃなくて、自分がいくら「ここじゃないどこか」を望んでいたとしても、きっと自分はこれから先もこんな感じの人生を生き続けるだろうし、「運命を変えてくれるほかの誰か」と出会うことなく、明日も会うことになるとわかっている人たちと会い続けるのだろうし、今の目の前の仕事と同じようなことを一生続けるのだろうし、だとすると向き合わなくちゃいけないのは、「うだつの上がらない自分を変える」とかそんなんじゃなくて、今自分の今まさに目の前にあることと向き合わなくちゃいけないんだってわかってたりして。

クリスマスを待ち侘びて、結局クリスマスに帰れず収容所で息を引き取っていった人たちの逸話を思い出した。フランクルはどうやって生き延びたか。「あの時は苦しかった」と、講演会のような場所で、今目の前で起きている凄惨な状況を過去形で語っている自分の姿を何度も反芻したという。未来を描き続けたのだ。今目の前で起きている現実を相対化するかのように。

それで今度は、ステージⅣのガンになった友達が書いたnoteのことを思い出して、「ひとのために生きる」ってすげーシンプルだな、いいなって思った。ああ、自分の思考は、自分に閉じてるんだな。徹底的に自分の世界に閉じてて、暗くて、悲しい、と思った。

何かが悲しくてそれを紛らわしたくて仕方がない時は、かえって明るく振る舞ってみたりして、その明るく振る舞ってみるリズムに乗っかって、悲しいという感情がどこかへ消えたりすることがある。他者に対峙する時に何かしらキャラを演じる必要性というのをうまく使って、演じられた自分に乗っかっることで、悲しみに閉じている自分をどこか別の位相に開かせようとする時がある。サンドバッグみたいにイライラをぶつけるとかじゃなくて、自分はこの人の前ではこうじゃなきゃいけないっていう場をうまく使うと、気分が良くなることがある。

高校への通学路の途中、朝にぐるぐる一人で思考が回ってしまっているとき、駅でたまたま同級生と遭遇して、「よっ」なんて言って他愛のない会話を始める。このとき、その「よっ友」が反芻の悪夢から自分を覚ましてくれるような感覚があった。「よっ友」とは、受験という競争のダルさと、一方で競走に果敢に向かっていく切磋琢磨の心、その両方を通じて言外で連帯していたように思う。その「よっ友」は常に模試の成績を気にしていたが、「お前また模試の成績気にしてんのかよ」て揶揄えるような、競争に囚われてる「おれたち」を丸ごと笑えるような関係性が、僕は好きだったのだなと感じる。


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