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小説「ある夫の日記 断章」

(掌編; 2,529文字)


3月15日
 採精室にイスに座るとどこか自分が人間として扱われていないような気分になった。無機質な白い壁、使い古された雑誌、淡々と手順が書かれた紙。ここでの自分の役割は感情を伴わないただの「作業」でしかないのだろう。手元の容器を見つめてこれが私たちの未来に繋がる一歩だと理解しようとしても、その重みを実感するのは難しかった。
 外で待つ彼女の顔が浮かぶ。彼女は今、採卵手術に挑む前で、いつも強気な彼女も今日は不安を隠せないでいる。彼女がどれほどの不安を抱えているかを思うと、胸が締めつけられる。自分はただ「種を出す」という作業をこなすだけだが、彼女は命がけで体を張っているのだ。「私たちのために」と彼女はよく言うが、その言葉が今はやけに重く響いた。
 手術を終えて戻ってきた彼女は、疲れきった表情だったが、その瞳には小さな希望の光も見えた。「取れたって」と彼女がつぶやいた。その数は予想より少なかったけれど、それでも次に進めることにほっとしている自分がいた。




3月25日

 受精卵の成長結果を聞いた。育った胚のグレードは期待していたものより低い。「可能性はある」と先生は言うが、その言葉の重みは私たちには測りかねた。ただ、彼女の表情は沈んでいた。ここまでの彼女の努力と葛藤を思うと、数値で判断されるこの現実が無情に感じられた。
 「大丈夫だよね、きっと…」と彼女は微笑んだが、その笑顔にはどこか無理があった。彼女がどれだけこの結果に打ちひしがれているのか、私はその表情から痛いほど感じ取っていた。それでも、彼女は前を向こうとした。「何度でも挑戦するよ」と強がる声には、以前の力強さは感じられなかった。私たちは無理に笑いながら、次のステップに進もうとしたが、心の奥には不安が広がっていた。




5月9日

 初めての移植後、結果は陰性だった。「どうして…?」彼女がつぶやいたその声に、私は何も返せなかった。最初の挑戦で成功する確率が低いことは理解していたはずだが、実際に「失敗」と向き合うと、その現実の重さが私たちを押しつぶした。
 「次はうまくいくよ」と言ったが、その言葉に確信はなかった。我ながら無力な自分に苛立ちを覚える。彼女も黙って頷くだけで、それ以上何も言わなかった。その夜、彼女はいつもより早く眠りについた。ベッドに横たわる彼女の背中を見ながら、こんな時に何もできない自分が悔しかった。




10月10日

 二度目の採卵。前回よりもさらに少ない卵子数に、彼女の表情はさらに沈んでいた。処置室から出てくる彼女の足取りは重く、私はそれをただ見守るしかなかった。「もうこれ以上は無理かもしれない」と彼女が呟いたとき、私は言葉を失った。彼女の心と体は限界に近づいているように見えた。彼女の手を握り、家に帰ってからも何も言わず、ただそばにいた。




10月28日

 得られた受精卵の結果もまた期待を裏切るものだった。彼女は今回は何も質問せず、ただ静かに先生の説明を聞いて「お願いします」とだけ言った。私も何も言えなかったが、彼女の無言の重みが胸に響いた。家に帰るまでの車内は無言だった。の中の一言も喋らなかったあの時間は私たちの中に広がる無力感を鮮明に映し出していたように自分でも思う。




11月10日

 移植後、また数日の結果待ち。彼女は「今回はうまくいくかな」と小さな声で言ったが、その声にはどこか期待のない色が混じっていた。以前の彼女とは違う。かつては少しでも前向きな言葉を口にしていたが、今はそれさえもできないほど疲れ果てているようだった。私もどこかそんな予感がしたが、そんなことを口にするわけにはいかない。お互いに励まし合おうとしたが、どちらももうそんな元気すらないのはわかっていた。




11月24日

 またもや陰性。また1ヶ月分彼女と私の「失敗」のカウントが増えたのだ。診察室から出てきた彼女の顔にはもはや表情がなかった。車に乗り込んだ瞬間彼女は泣き出した。「なんでこんななの…私のせいなの?」と涙まじりに彼女がつぶやいた言葉が今でも耳に残っている。私は彼女に手を差し伸べるが、その手は何かを変えられるわけではなかった。いつも前向きで明るい笑顔を見せてくれていた彼女の心が壊れていくのを感じている。




3月15日

 三度目の採卵に挑む彼女の姿は、以前とはまるで別人のように見えた。細くなった腕、力のない瞳。しかし、今回気持ちは違っていた、ように思う。これが最後の挑戦だと二人の中で決めていたから。今回も結果が思わしくなければ次はおそらくないだろう。それは終わりなのか、それとも心が解放されるのか。わからないけど決めたのだ。
 彼女は何も言わずに診察室に向かい、私も見慣れたカップを別室に預けて、ただ待つことしかできなかった。その時間は今までで一番長く感じたように思う。




4月5日

 移植日。これまでの失敗があまりにも重く、私たちはもう何かに祈ることすらしなかった。だが彼女はあきらめてはいなかったように思う。私も彼女を支え続ける覚悟だけは変わらない。




4月20日

 今回は私一人で結果を聞きに行った。結果、陽性。この2文字を聞けたこと、この日記に書けることが信じられない。今まで冷たく感じていた先生の表情が今日はどこか暖かく感じた。長い間、ただ「失敗」に慣れていたから、喜びと安心の感情を忘れてしまっていたようだ。
 彼女には診察室から出て即座にメッセージを送った。「ありがとう」。プロポーズの瞬間よりも緊張していたのかもしれない。




5月10日

 エコー検査。スクリーンに映る小さな影。それが私たちの待ち望んだ瞬間だということを、ようやく実感できた。エコー写真を手にした彼女は涙を浮かべながら微笑んだ。「これからも頑張らなきゃだね。でも、きっと乗り越えられるね」彼女が静かに言った。その言葉を聞いて私もただ頷くしかなかった。彼女の笑顔には再び少しだけ以前の元気が戻ってきたように感じた。
 まだ無事に終わったわけではないし、始まったわけでもない。これは過程に過ぎない。これからも試練が続くだろうし、またどん底を味わうかもしれない。でも、これまでのように、これからも乗り越えていく覚悟はできている。二人でも、三人になっても。

拙作をお読みいただきありがとうございます!時には心に花を、時には刺激をお届けできるようこれからも執筆を続けていきます。よろしければまた投稿があなたのもとに届きますように。