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巻き込まれたくはありません

「私は長生きしたいとは思いません。でも、巻き込まれたくはありません。

前回の記事にこう書きましたし、ここのところずっとそう思っています。

実は、「巻き込まれたくない」という言葉のほうが先に出てきました。こういうのを「ひらめき」と言うのでしょうか。

「ひらめき」といえば、2,3週間前に、山歩き(というよりは森林浴?)をしていて、突然「玄米が食べたい!」と思いました。思ったというより、降ってきました。玄米って、デトックスの食材ですから、それで、ワクチンではないシェディングに気づいたというわけです。


話が逸れましたが、何に「巻き込まれたくない」のでしょうか。

慢性疾患はまずは食べているものを見直さなければなりません。でも、現実として、「好きな物を好きなように食べて、検査にひっかかって、医療に繋がり、福祉の世話になる」人は多く、それが権利として保証されています。姑もその一人ですけれど。

私はこの図式には絶対に乗りたくありません。

姑は、甘いもの、糖質の摂りすぎで糖尿病になり、慢性疾患のデパートになり、足が痛くて歩くのも大変です。でも、お菓子や果物を毎日食べています。私と同居を始めてから、かなり減ったようですが。

姑は自分が美味しいと思うものを次々と勧めてきます。これから、ぶどうやら果物のおいしい季節になりますが、「ぶどうを5粒くらいなら食べられるでしょう?」と食べる”予約”までとりつけてきます。5粒で終わればいいのですが、一度食べたら、次回もその次も、今度はもっと大量に食べなければならなくなるのは目に見えています。甘いものの食べ過ぎで骨が変形し、痛みが強くなっていることは、素人目にも明らかです。そういう人が勧めてくるぶどう5粒は、けっこう怖い~


ビョーキは天から降ってくるもので、自分が食べているものと、自分のビョーキは別物だと思う人が”ふつう”です。それだけに、食べたものでビョーキになると考えている私は、”おかしな人”であり、他人様の好意を無にする非常識な人でもあります。

何に巻き込まれたくないかと言えば、こういった「世の中の風潮」ということになります。

私はこの「世の中の風潮」と格闘していかなければいけません。ネット上には、私と似た考え方の人はいくらでもいるのですが、身近なリアル界ではゼロです。そういう中にぽんと異端の私が放り込まれたのは、これが私への課題だからなのでしょう。


でも、「世の中の風潮」と格闘して何の意味があるのでしょうか?

私は、人々の労力の結晶を、「好きな物を好きなように食べて、検査にひっかかって、医療に繋がり、福祉の世話になる」という図式に放り込むべきではないと思うのです。制度が悪いのはわかりきっていますが、利権が絡んでいるので、なかなか変わらないでしょう。ということは、個人レベルで理解し、できることをするべきです。

その戦いの中で、一番大事なのは、他人からの評価を気にしないということです。他人からどう思われようが、どうでもいいということです。それ、前から言っていたよ~と言われると思いますが、ちょっと意味合いが違います。他人という人間の持つ価値観に基準を置かなくなったということです。以前は、他人は他人、自分は自分ということで、他人を気にしないということでした。今は、他人でもなければ自分でもないところ、次世代であったり、お天道様だとか神に基準を置いています。ぶどう5粒を拒否するって、本当にとんでもない嫁だけれどね(ポリポリ)。


「ヨハネによる福音書」の冒頭に、「はじめに言葉があり、言葉は神と共にあり、言葉は神であった。」とあります。様々な解釈があるのでしょうし、素人の私が勝手に言えるものでもないのですが、私にはぐっとくる箇所です。「玄米食いてぇ~」も「巻き込まれたくない」も、まず言葉が降ってきました。それで、どうしてそう思ったのだろうと探っていくと、なるほど!と思うのです。

そういったことを基準にしていますから、「私の好きな食べ物をあなたも食べなさい」には乗らなくても、特になんとも思わないということです。姑にすれば、こんな嫁でがっくりでしょうけれど。

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