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意見を持つから感情が生まれる

「SATORISM TV.221」からいくつか拾ってみた。

人々の感情を動かすことがプロパガンダの目的だ。
誰がどこに向けてエネルギーを注いでいるのかに注目しなければいけない。例えば、どこかの大統領は連日誰に向って演説しているいるのか。(自国民に向けてスピーチしているのか?)
・私たちは感情を刺激されて、思考が停止し、意図する方向に向かわされている。
・愚民は受け入れられないものに、すぐにレッテルを貼る。


まさにおっしゃる通りだと思う。私の口から「愚民」という言葉を出すのははばかられるけれど、自分と違う意見を聞くと、他人にレッテルを貼る人は多い。ラベリングしてしまえば、それ以上の取り扱いは必要なくなる。つまり、「考える」という面倒くさいことをせずに済む

幸い、私は、その場では受け入れられない意見が、後になってその通りだったという経験を何度もしている。だから、受け入れられなくても却下することなく保留する。必ず答え合わせのときが来るのを知っているから。

他人様が感情をゆさぶられて、あきれるほど簡単に流されていくことをさんざん見てきたから、今さら言いたいことなど何もない。今はもっと身近なところ、他人から感情をぶつけられたときにどうするかということのほうが、私にとっては切実な問題だ。

例えば「心配だ!」とか、「かわいそう」だとか、「ひどい」とか・・・。その気持ちに寄り添うことを暗に要求されるが、正直、とても不愉快だ。特に親たち。高齢になってますます視野狭窄になり、同じことばかり言う。同意すればますます深みに連れ込まれることになる。

感情をあらわにすることが”許される人”は、幸せなんだと思う。いや、ずるいと思っていた。私はそういう他人様の感情、特に親の感情を引き受けることを要求され続けてきたのに、私が感情を出せば叱責を受ける。

若いときはそれが辛かった。不公平だとも思ったけれど、親のほうが立場が上だし、他人からは「親孝行は大事だよ~」と分かったようなことを言われた。親でない人であれば、力関係が上であることが多く、私が黙るしかない。

メディアはプロパガンダの装置であると警戒している私にすれば、「心配だ!」というその基準がメディアが流している情報だというのはすぐに分かる。でも、そういった人たちは、メディアが流すとおりに心配することがいいことだと固く信じているだけに、なかなか厄介だ。

与えられた価値基準であれ、経験した結果として得られた価値基準であれ、自分の持っている価値基準が「ふつう」だと固く信じている人は多い。私もまた、自分の価値基準は、少数派ではあっても、悪くないものだと信じている。

だったら、


「自分の意見を持たなければいい」


親や他人様が言っていることが「プロパガンダだ」と”思う”根底には私の意見がある。でも、「SATORISM TV.221」から拾ったいくつかの話は、私にとっては既に常識で、私個人の意見を越えている。つまり、私は、他人様の感情を判断する個人的意見を持ち合わせていないことになる。ということは、親や他人様が言うこを判断できないから、それら全てが単なる”現象”や”風景”にすぎないことになる。

だから、「ふ~うん」以上の何ものでもなく、私の感情が揺さぶられることもなくなる。これは大きな発見だった。


「自分の意見を持つことが大事だ!」と言われ、私自身もそう信じてきたけれど、意見をもつから感情が生まれ、衝突したり、手繰られたりする。自分の意見を持たずにただ観察すれば、相手のことも、周囲のこともよく見えてくる。

親や他人様が「心配だ!」、「かわいそう」、「ひどい」と言うことばに、ずっと違和感があったのは、「私の意見・価値観に従え」という裏の要求を感じていたからだ。申し訳ないけれど、子どもだと思う。歳をとれば子どもっぽくなるとは言うけれど、若いときからその傾向はあった。自分にはそれが許されると思い込んでいる根底には、「肥大化した自己」「権利」という思想があるのかもしれない。

そういう人たちを客観的に観察し、対処していくことが私に与えられた「仕事(課題)」のような気がする。そう思えば、悪しきことに加担しているという罪悪感は消える

戦後教育の賜物だろうね。そりゃあ、人々が子どもっぽくなって愚かになれば、支配しやすいから。GHQの被害者と言えばそうだろうけれど、次世代に引き継ぐ価値観じゃない。私のようなもう若くないオバサンが防波堤になるのがふさわしいのではないかと思う。


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