神様のご意思
「いわゆる“見える人”だとして、そういうセンスを持った人」の話を、中村先生の記事から引用させていただく。
この話もそうだけれど、「聖書預言」などを知ると、この騒ぎは神が意図されたことだと思う。神がどうしてそういうことをなさるのか。選別なのか、人々にメッセージを伝えるためなのか、それは分からないけれど。
もう、いい歳のおばさんだから、私も特に長生きをしたいと思わない。私が犠牲になって若い人たちが免れるならそうしたいところだけれど、おそらく無駄死になるだろう。日本政府に割り当てられているノルマの達成には協力したくないし。
私に近しい人には特にそうだけれど、選別で振り落とされるほうに回ってほしくない。いや、そう思っていた。険悪になっても言ってきたし、そのことで何度泣いたか分からない。
でも、私にはどうすることもできないことが分かってきた。「あきらめ」と言えばそうだ。「あきらめ」には「明らかにする」という意味が含まれているから、「無理だということが明らかになった」という話。
液体の嘘や茶番に気づいても、それだけでは次の選別で落とされてしまう。その根本のところまでの理解は、なかなか難しいらしい。私が気づくくらいだから、説明すれば分かるものだと思っていたけれど。これは、液体の嘘やこの騒ぎが茶番であることを伝えるより難しく、正直、頭がクラクラする。
そう、お金だ。その延長としての仕事。
夫の家系は商売人家系で、それを誇りに思っている。得だと思えば、毒であっても、一つでも多く得ようとする。
また、私の周囲は、男女問わず「仕事=アイデンティティ」で、仕事が最も優先される。私は専業主婦だから、「仕事がナンボのモノ?」と思っているのだけれど。
そういう人たちに、選別で振り落とされないことに注目してもらうのは至難の業だ。
言葉では伝わらないのは、イヤというほど分かっている。もし、伝わることがあるとすれば、私の態度からだけだ。そこをくみ取ってもらえるかどうかもわからない。特に、私に近しい人の中では誰もしないと思う。
正直、あっちもこっちも頭をかかえてしまうようなことだらけ。頭が痛いというのは、私が揺らいでいるからだ。それほど、精神的にタフなわけでもないからうんざりもするし、しんどい。自分の安寧のためにも、揺らがない工夫をしていかなければいけないと思う。
結局、「ルーティンと感謝」するしか方法はないのだろう。
「修行」って何のためにするのかといことが、遅ればせながらようやく分かってきた気がする。
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