見出し画像

なぜ大学に集い、学ぶのか

このご時世、活動のリモート化が著しい。
リモートワークをする日が増えた/できた、という人も多いだろう。

私は大学生だが、ビデオ会議ツールで済む用事は全部家から繋ぐ。結局ほとんどが「不要不急の外出」だったのかと錯覚することもある。
それまで念入りに大学へ行く回数を数えて定期券を買うか否かと考えていたくせに、いつの間にかパソコン一台と環境さえあればほとんど事足りてしまうという現実の中にいた。なんだか不思議な気分である。

大学の授業もそのうちオンラインで始まる方針らしい。ビデオ会議ツールを使って行ったり、一方的に動画が配信されたりの日々になるのではないかと考えられる。

実際にそれがうまくいくかどうかはやってみないと分からないが、ここに疑問が生じる。

もしオンラインで全て済んでしまうのであれば、これまで眠い目をこすって満員電車に揺られて時間通りに着席していた日々というのは一体なんだったのか?キャンパスに来て教室で学ぶ意義とは一体なんなのか?平常点(出席点)とは一体なんなのか?大学生の「あるべき」姿とは?

少し焦点を絞って考えてみたい。そして備忘録的に自分の日々をも記録しておこうと思う。

**********

今の自分(新大学3年生)の状況を鑑みると、オフラインの繋がりが必要不可欠だと感じるような授業にまつわる出来事は片手で数えられる程度にすぎない。
授業の質問だってあとで個別にメールすればいいし(全学生が一度に1人の先生にメールを入れたらキャパオーバーになるが、普段の様子を見るに全く問題なさそうである)、グループプレゼンに向けて必要な打ち合わせはビデオ会議で済む。資料の同時編集だってできる時代だ。

授業外でも、話したいと思った友達との会話も、個別で電話すればいい。他愛のない会話というのは確約されないだろうけれど。

これまで授業を受けてきた中でも感じていたことだが、ほぼ全てのレジュメ類がデータ化されているため、あとは教員の声、口頭での説明さえあれば大概問題ない。
ならばビデオ会議ツールで繋げば十分なのではないか、ということである。


これはさらに個人的な話になるが、一人の方がよほど集中できる。最近、教授が開催する勉強会にリモートで参加しているが、教室で他の生徒と並んで参加するよりも集中して話を聞くことができる。

授業を受ける環境という面で言えば、空調も自由だ。正直な話、服装だって映る部分だけちゃんとすればよい。わざわざ痛くなるような靴を履く必要も足を締め付ける必要もない。顔を映さなくてもよいのなら化粧の手間だって省ける(そもそもなぜ化粧をするのか論にも及ぶがこれは省略)。よほど健康的かつ効率的ではないか、とも思う。


でも一方で困るのは、新入生など、何か新しいことを始める状況にある場合である。
友達を作りにくいのは言うまでもなく、分からないことを気軽に聞ける人もいなくて不安な生活だろう。

あるいは新しいことを始める状況でなくても、ちょっとした用事を頼む機会が多い時期には困るかもしれない。学祭の実行委員をやっていた頃、スマホで連絡を入れるより直接話した方が早いことがたくさんあって、10連休という期間が鬱陶しかった経験がある。
ただ、これは授業外に限ったことであるから、授業そのものについて不便というのはあまり感じられないように思えるが…。

**********

とはいえ日本にはたくさんの大学のキャンパスが点在しているから、きっと意味があるのだろう。キャンパスはなく寮があり、他は全てオンラインで済まされるというミネルバ大学が、未だ、そして少なくともこれから先しばらくは目新しいと注目されると考えられるのはその証拠である。

私が考えるに、大学の授業自体がオフラインでなされる意味というのは正直に言ってあまりないように思える。
もちろん、家でも自由にインターネットが使える状況であり、資料がオンラインで配布され、それで基本的には充足するという条件のもとでの話ではあるが(他大学との比較をなしていないため何とも言えない)。

それでも、タイトルに掲げた問い「なぜ大学に集い、学ぶのか」という問いに、自分なりの2つの答えをもっている。

1つには、先ほど書いたような人間同士の関係の問題がある。
最初から教室に集う必要が全くなく、もし生活も共にしないようならば、新しい人との出会いが遮断されてしまう。
せっかく同じ大学を選んだのだから、何か少しでも、特定の人とだけでも濃い関係を築けるチャンスなのだ。それが最初から保証されないようなら学びそのものがやや空疎になってしまうように思われる。


そして2つめには、学生同士で(時に外部を巻き込んで)何か新しいことを起こす、新しい取り組み・つながりを創り出したりそれに足を踏み入れたりすることに「大学生としての学び」の価値があるから、というのものがある。

いつかの自分も語ったように、授業だけが大学生の学びではないし、自分を伸ばす手段ではない。そのアクティブな活動の拠点となりうるものとして、教室、大学というものが存在しているのではないだろうか。


なんてつらつらと思うままに書いてきたが、何と言っても家では勉強できない(勉強に集中できない)、一人より仲間といた方が楽しい、というのが一番だという人も一定数いるだろう。そりゃ、この1ヶ月近く友達と話していないものだから私だって寂しくもなるものだ。
でも偉そうに上の2つを挙げてしまうくらいにはある意味そんな程度なのかもしれないし。



高校までとの違いが歴然とあらわれているような気がして、ますます大学という存在そのものが興味深く思えてくるこの頃である。


そして大学以外の教育現場に目をやれば、長期化する休校期間の子どもたちは塞ぎ込んでしまうだろうし、その保護者も仕事への影響があるだろうし、教職員も工夫を求められるだろうし、と山積する問題が目立つ。どうか平和な日常が早く戻りますように。空っぽの公園を見て虚しくなるのは私も一緒だ。