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【現代語訳】徳川慶喜公伝 大政奉還 その6

渋沢栄一がまとめた「徳川慶喜公伝」の現代語訳にチャレンジするシリーズ。
第6弾をお届けします!

かなり久しぶりの投稿ですが、地道にやっていきたいと思います。一旦、大政奉還の最後まで現代語訳できたら、改めてわかりやすく図解しても面白いかもと思っています。


前提

・底本は、「東洋文庫107 徳川慶喜公伝4 渋沢栄一著 平凡社」です。
・徳川慶喜公伝は1巻〜4巻までありますが、大政奉還や鳥羽・伏見の戦いについて書かれている4巻を対象としています。
・その中でも、大政奉還の経緯が書かれている第二十七章を現代語訳する予定です。(元々、鳥羽伏見の戦いで徳川慶喜が江戸城に帰るところまで現代語訳しようと思っていましたが、一旦大政奉還のところで切り上げます。江戸城に帰るところは、体力があれば・・・)
・歴史家でも何でもない素人が現代語訳しています。
・現代語訳をきっかけとして、より多くの人にこの本に興味を持ってもらい、叶うことなら平凡社または他の出版社から復刊されることを願っています。

前回までのあらすじ

・薩摩藩と長州藩が同盟を組み討幕の動きを見せ始める。
・討幕はあくまでも最後の手段と考える坂本竜馬は、幕府から主体的に政権を朝廷に奉還させることをめざし、公議政体論を説く「八策」を草案。脱藩の身であったため、それを身分ある後藤象二郎から幕府に建白書を提出してもらおうと考える。
・後藤象二郎は、幕府に意見する前に薩摩藩と会談。「王政復古と議会制度の確立により新しい国の基礎を築く」という点では盟約を結ぶが、「幕府との平和的な解決」という点では合意を得られなかった。西郷吉之助(西郷隆盛)と大久保一蔵(大久保利通)は、土佐藩が討幕をめざすのかめざさないのか、国論が一致していないことを不審に思っていた。後藤象二郎は、土佐藩の国論を定めて再び上京することを約束し、土佐に帰る。
・その間に、幕府を廃して皇室の再興をめざす岩倉友山(岩倉具視)が土佐藩の中岡慎太郎および坂本竜馬と面会する。岩倉は、中岡の勧めで三条元中納言(三条実美)と和解する。皇室の再興をめざす岩倉の意向を受けた薩摩藩の島津大隈守は、土佐藩の国論に関係なく討幕計画に尽くすことを誓う。芸州藩も薩長同盟に加わることとなった。
・薩摩藩は京都で挙兵して京都御所を守護しよう考えており、そのために長州藩の援助が必要であると考えていた。大久保一蔵は長州に向かい、木戸準一郎(木戸孝允)らと会談して挙兵の約束を取り付ける。その頃長州藩は、幕府からの命令で家老を大阪に向かわせることとなったため、それに兵を従わせて、薩摩藩および芸州藩の船と合流して東へ向かうこととなった。
・薩摩藩は、一度土佐藩と結んだ盟約を放棄するが、土佐藩が公議政体論を幕府に建白すること自体は止めなかった。一方、薩長と同盟を組んでいた芸州藩の辻将曹は、後藤象二郎の説得を受けて挙兵を中止させる。
・後藤象二郎は、幕府の若年寄りである永井玄蕃頭(永井尚志)から、速やかに建白書を提出するよう勧められる。その後、松山藩の藩主である板倉伊賀守(板倉勝静)や公卿の二条摂政(二条斉敬)にも建白の次第を伝えるが、板倉伊賀守は公議政体論をすぐに採用するとは言えなかった。建白の件は、会津藩の重役である外島幾兵衛(外島義直)を通して藩主の松平肥後守(松平容保)にも伝わるが、土佐藩の建議を支持するかどうか、会津藩の議論はまとまらなかった。
・坂本竜馬は、政権奉還が平和的に実現しない場合は、仏教やキリスト教を利用して人々の心を扇動して戦をしてでも幕府を倒すことを考えており、オランダ商人からライフル銃を1300挺購入するなどしていた。その後彼は薩長の挙兵の動きを知り、薩長の勢力を利用して国の運営方針を定めることが、土佐藩の今の任務だと考える。この点が、あくまでも建白によって平和的な政権奉還を実現しようとする後藤象二郎とは考えが異なっていた。土佐藩士は建白と挙兵の二つの派閥に分かれていたが、坂本竜馬は両派の間に立って融和させようと骨を折り、建白は建白の方向に進め、挙兵は挙兵の方向に進め、お互いが影響し合って情勢の展開の助けとなるように動いていた。
・この頃、芸州藩藩主の松平安芸守(浅野茂長)も、土佐藩の論に同調する辻将曹を通して、建白書を板倉伊賀守に提出させた。
・徳川家第5代将軍徳川慶喜は、王政復古をしたとしても、公卿、殿上人、諸大名では政治をする力が足りず、かといって諸般の藩士が政治をすることは許されない状況で、具体的な解決方法が得られないことを嘆いていた。その時に、土佐藩の前藩主、松平容堂が出した建白書に「上院と下院を設けて公論で物事を決める」と書かれているのを見て喜び、腹心の老中である板倉伊賀守と若年寄格の永井玄蕃頭に、王政復古の好機会であることを告げる。二人は、徳川慶喜の決断を支持する。
・徳川慶喜は、先祖代々300年に近く続いた政権を奉還するにあたり、本来であれば譜代大名以下、旗本まで召集して議論を尽くすべきだが、そうするといたずらに争いごとを招いて容易には決まらないと思ったので、政権奉還を決めてから後で知らせることとした。こうして10月12日に大小の目付をはじめ、諸役人一同をお呼びになり、政権を奉還することを認めた書状を示して自分の考えを伝えた。一同は感服した様子であったが、幕府の政権に執着している者が多く、かれこれと囁き合うだけで、徳川慶喜の意見を翻すほど明らかな弁論もなく、いたずらにくどくど言い合っているだけだった。その後も徳川慶喜が自分の意志を伝えると、諸役人は心では不平に思っていても、一言の異議を唱える者もなく、いずれも皆承服した。

第二十七章 政権奉還 その6

こうして諸藩の意見を得られたということで、徳川慶喜は大小の目付に対して、「国家の大事なので、奉行所から達しがあった場合には、来たる10月13日に重役は二条城に出てくるように」と仰り、京都にいる諸藩にお知らせになった。

これより先の10月10日のことだが、板倉伊賀守は将軍の命令を承って、福井藩主の松平春嶽の意見を聞くことになり、その書状が10月13日に福井に届いた。板倉伊賀守から届いた書状の内容は次のようなものであった。「松平容堂が、家来の後藤象二郎を京都に遣わせて来た。後藤象二郎は、10月3日に別紙の建白書の写しを差し出してこう言った。今差し迫った情勢なので、この建白書を採用するかどうか、少しでも早く教えてほしいと。国内の形勢をよく考えてみると、この状況では必ず平穏になるという見込みもなく、松平容堂の考えは真っ当なものだった。だが、政体を変えるのは重大なことなので、実施するにあたっての利害や損失はどうなるのかと、心は焦り、苦慮した。(徳川慶喜公は)元々天皇を崇め奉られ、この国を維持しようというお考えで、将軍を相続してからは昼も夜も苦心されている。王政が復古し、この国が平穏に治まり、天皇の心も安らかになり、万民も安心するとなれば、職掌がどうなったとしても王政復古は本意だと、慶喜公は公明正大に考えていらっしゃる。しかし、何しろ将来の見通しが立たず、容易に決断できないため、衆議を尽くそうとお考えになり、あなた(松平春嶽)のご意見も十分に聞いておきたいということで、私から聞いておくようにと仰られた。よく熟考いただき、忌憚なきご意見をいただきたい。いずれ松平容堂にも上京の命が出ると思うので、その際にはあなた(松平春嶽)にも上京していただきたい。まずは、とりあえず福井藩士の中根雪江と酒井十之丞を上京させて欲しい」と。

これを受けて松平春嶽は次のように返信した。「王政復古というのは近年議論しているところだが、数百年前の昔の制度でその体裁をよく知らない。郡県制と封建制の違いをはじめ、国体や時勢の変遷も天と地ほどの隔たりがあるため、徳川家の二百年という地球上比べるもののない平和を築いた偉業を踏襲せずに、ぼんやりして掴みどころのない王家の旧制に戻るということは、見識の浅い私にとっては考えの拠り所もない。松平容堂の書面を繰り返し読んでもなかなか深く考えることが難しいので、建白の内容を採用すべきとは申し上げづらい。議論を正大にするというのはおっしゃる通りだが、実践の上でしっかりと決まりがつかないようなことは、採用すべきではないことは当然だ。しかしこれは、王政の制度をよく知らないためであって、目処がつきかねるような見識の狭い私の偏見で申していることなので、決してこれが私の定見ではない。断然と建議している松平容堂の見込み通り、朝廷と民間の人心としても、時運の状況からしても、その内容は真っ当なことだと思うので、きっと世の中が治まって平穏になる見込みが立てば、それに従って変革すべきことはもちろんだと思う。その時に及んでもなお、個人的な意見に固執しようとは思わない。この上は、何とぞ松平容堂の使節の熱意を貫いて、遺憾のない所まで御下問くださるよう望む。もし誤って、松平容堂をはじめとして藩の人心を失ってしまっては由々しき大事になるので」と。そして、福井藩士の酒井十之丞を上京させた。

(渋沢栄一が)思うに、松平春嶽も、島津斉彬や伊達宗城と同じく、政権奉還は時期尚早だと考えていたのだろう。結局、徳川慶喜公の諮問は、徳川一門の識者を優待することにはしたが、その返答によって変わることはなかった。政権奉還の意志は以前から定まっていらっしゃったのだ。

坂本竜馬は、徳川慶喜公が10月13日に諸藩の重役を呼び寄せて会うということを聞き、後藤象二郎を励ましながら次のように言った。「建白したことが万が一行われなかったら、先生(象二郎)は死に、俺は海援隊の一手によって徳川慶喜公が皇居に参上する道で待ち伏せして、国家のために生かしておけない敵として仇を討ち、それが成功するか失敗するかは関係なく、先生の元へ行く。また、建白の中に「一切の政治と刑罰を朝廷に帰還し」とある一句について、別の日に幕府から天皇に奉る文書中から抜け落ちてしまうか、あるいはこの一句の前後が入り混じり、政治と刑罰を朝廷に帰還することが阻害されてしまうかもしれない。このことは、鎌倉幕府以来、武家が掌握してきた政治的な権限を解除するという大事なので、幕府は何とも判断が難しいと思う。それゆえ、幕府側の議論の目的はただこの部分にある。万が一、先生(象二郎)が失敗してこの大きな機会を失うことがあれば、その罪は世の中に許容されないだろう。俺もまた、薩長二藩から厳しく責め立てられ、どうして何の成果もなく生きていられようか」と。

後藤象二郎はこれに対して、「建白したことが行われなかったら、俺も生きて帰るつもりはない。形勢を見て、後日挙兵することを考えてふらりと城から出ていくということも難しいから、おそらく死ぬことによって抗議するだろう。俺が死んだ後に海援隊が慶喜公を討つという件については、君が機会を見て実行するのに任せる。ただし、軽率に行動して失敗することのないように」と言った。

10月13日、尾張藩の尾崎八右衛門、紀州藩の三浦休太郎、彦根藩の岡本半助、高松藩の小夫兵庫、忍藩の牧勝兵衛と岡本金蔵、姫路藩の青木午蔵、高田藩の鶴見八右衛門、庄内藩の大野与右衛門、加賀藩の前田内蔵太、徳島藩の永江播磨、筑前藩の久野四兵衛、仙台藩の松崎仲太夫、津山藩の奥村綾夫、鳥取藩の真野大次郎と河毛文蔵、肥後藩の田中典儀、津藩の垣地九右衛門と藤井鼎介、米沢藩の真野寛助、久留米藩の柘植伝八と山村源太夫、盛岡藩の津田又六、秋田藩の長瀬兵庫、越前藩の伊藤友四郎、備前藩の牧野権六郎と沢井権次郎、松江藩の高橋律蔵、柳川藩の宮崎国之助、前橋藩の鎌田三郎兵衛、薩摩藩の小松帯刀と吉井幸輔、芸州藩の辻将曹、土佐藩の後藤象二郎と福岡藤次、弘前藩の赤石礼次郎、二本松藩の増子現蔵、宇和島藩の都築荘蔵、会津藩の百武介右衛門(その他に外島機兵衛と広沢富次郎も従う)、大聖寺藩の前田利鬯、富山藩の儀野新九郎、中津藩の富野彦左衛門、郡山藩の新井弥左衛門、小倉藩の清水勘解由と入江直記、大垣藩の桑山豊三郎と市川元之助、松代藩の長谷川深美、新発田藩の寺田喜三郎など、四十藩の重役が二条城に参上した。

一同、大広間の二の間に参列すると、午後二時頃に、板倉伊賀守、大目付の外川伊豆守、目付の設楽岩次郎らが出席して、慶喜公の御諮問案を回覧させた(御諮問案は次に挙げる上表と同じ文であり、ただ前後の体裁が違っているだけである)。伊賀守から、「おのおの考えていることもあると思うが、(慶喜公が)じきじきにお尋ねされている内容なので、包み隠さず申し上げるように。また、考えた上で申し上げたい者は、追々申し上げるように」とお達しになると、一同は謹んで申し上げる旨承ったが、その時伊豆守は筆と紙を持ってきて、「考えがあって拝謁を願う者は、姓名を記入してほしい」と言った。これに応じてその名前を記した者は、薩摩の小松帯刀、芸州藩の辻将曹、土佐藩の後藤象二郎と福岡藤次、宇和島藩の都築荘蔵、備前藩の牧野権六郎の6名だった。その6名は居残り、諸藩氏はみんな退城した。

こうして、薩摩、土佐、芸州の4人が、「三藩で申し上げて相談することもあるので、一同でお目見えを願いたい」と申し出ると、許可された。しばらくして、慶喜公は大広間の本間で4人にお会いになった。小松帯刀がまず口を開き、「今日お発しになった政権返上のお考えは、恐れながら時勢を洞察されてご英断なさったことであり、大変優れたご見識であり、まことに敬服いたします。ありがたきことです」と言った。後藤象二郎も同じ意見を申し上げたが、その時伊賀守が少し興味を示して、「帯刀、それについてはきっと考える所があるんだろう。包み隠さず申し上げよ」と言うと、小松帯刀は伊賀守の方に向いて、「それであれば申し上げても宜しいでしょうか」と言った。伊賀守が「何も問題はない、遠慮する必要はない」と言うと、小松帯刀は姿勢を改め、(慶喜公に)向かい直って「政権をご返上されたとしても、今の朝廷が政治を執り行うことは難しいと思います。諸大名を呼び寄せて、十分に彼らの思うところを尋ねるべきです。それまでの間は、外国に関する事務や国家の大事件は、朝廷の評議によって決行し、その他はすべて従来のように(慶喜公に)ご委任いただくのが適切だと思います」と言った。慶喜公がそれを聞いて「もっともなことだ」と仰ると、小松帯刀はかしこまり、ありがたく思うことを述べ、後藤象二郎も何やら一言二言申し上げた。その後一同は慶喜公の前から退き、別席で4人が再び伊賀守と会話した。小松帯刀が「(慶喜公に)今から直接朝廷に参内していただきたい」と促すと、伊賀守は「朝廷の都合もあるから、今すぐということは難しい」と言い、その後いくつかのやりとりがあり、ようやく明日10月14日に天皇に上申し、明後日10月15日に朝廷に参内いただいた方がよいということに決まった。伊賀守は「(慶喜公が)天皇に上申したのに御裁可が出ないとよろしくないので、お前たちからあらかじめ話がまとまるよう取り計らっておくように」と告げると、4人は「かしこまりました」と言って退出した。

備前藩の牧野権六郎と宇和島藩の都築荘蔵は、他の三藩士が謁見を終えた後、一人ずつ慶喜公の前に出た。まず牧野権六郎が謁見して「今日(慶喜公が)仰せになったことは誠にありがい事で、恐れながら感銘いたしました。しかしそれを実行しなければ、仰せになった効果もございません。国許の主人に遣いをやり、(政権返上の)見込みを申し上げるのを待たせてしまうようだと、かえって人の心を動揺させてしまうと思います。速やかに天皇に上申していただき、即日の執行を願います」と言った。
次に都築荘蔵が「今日拝見した(慶喜公の)御書付で、お考えに深く感服しました。私のような低い身分で政治を議論することは大変僭越ですが、ただ政権を朝廷へ返すと言うだけでは如何なものでしょうか。永久に朽ちない国体を立てられることこそ願わしいと思います。そのためには先日土佐藩から提出された建白書を審査・許可し、公卿や大名とも会議の上、公明正大な処置をお願いします」と申して退出した。

当日の諮問はこれで終わったが、慶喜公が参内する日時がまだ決まっていないので、4人は(いつ参内するのかという)決議を聞かなければ帰らないと言い、牧野権六郎も同じ気持ちで城内に留まった。その結果、午後九時頃に議決し、15日に参内されるということを聞き、5人ははじめて退城した。

福井藩主松平慶永の家臣、中根雪江が書いた丁卯日記の11月9日のところに、土佐藩の福岡藤次が福井藩の越前邸に来た時に話したことが書いてある。(薩摩、土佐、芸州の)4人が(慶喜公に)謁見したとき、(福岡藤次が)「お考えになっていることを少しでも早く朝廷と民間へお伝えにならないとよろしくないので、明日10月14日早々に参内され、また諸藩士の建議もお聞きになって、それらも共に天皇に上申してください」と慶喜公に申し上げたところ、「(政権返上の件を)天皇に上申することと、下の者たちに意見を求めることは、別の事だ。また、速やかに参内することも承知したが、明後日の10月15日でなければ難しい。」と慶喜公は仰った。それに対して「一刻も早く実行していただかないとよろしくないと思います」と言ったところ、「明後日は必ず参内するから安心せよ」と慶喜公のご意見をいただいたので退出し、その後さらに伊賀守に督促した、と書いてある。また、4人から朝廷に取り計らうことを伊賀守に申し出たが、はかばかしい答えはなく、幕府の若年寄りの永井玄蕃頭の意向でそのことを4人に依頼したとある。今は慶喜公がお話された内容に従う。

(つづく)

進捗

第二十七章が全部で48ページあるうち、約30ページを現代語訳済み。(残り18ページ!1回あたり5ページ分なので、あと4回(全10回)というキリの良いところで本シリーズは終えられる見込みです)

次回は、今回の話を聞いた坂本竜馬の気持ち、そして、京都の討幕派や岩倉具視の動きなどを現代語訳したいと思います。
それでは次回もお楽しみに!

過去の記事


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