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9歳、初めての在宅看取り~私の原点~


プロフィールを新しくしました。
読んで頂けると嬉しいです。


「おばあちゃんが天国に行きますように」
9歳の私は仏壇に手を合わせて祈っていました。

足を悪くした祖母(母にとっては姑)は長い間、母に介護して貰っていました。保育園や小学校から帰ると母ではなく祖母が私を出迎えてくれました。祖母は私の頭をヨシヨシ良い子といつも撫でてくれていました。そんな祖母が死に近づいていると知り私は祈ることしか出来ませんでした。


1,祖母の死は家族が集まる行事


祖母が天国に旅立って、子供達が集まり祖母への労いの言葉や感謝の言葉を述べています。
一人娘(私の叔母)は泣いています。皆で祖母を囲んでお別れをします。
家族が順番に祖母の側に近づいて体を清めていた記憶があります。
「こんな小さな体で産んでくれたんだね、ありがとう」
それはとても美しい光景として記憶の中に残っています。

私はそれを見て家族の誰かが天国に旅立つと家族全員が集まって
賑やかになり何だか優しい空間が出来るんだなと子供心に心が動いた記憶があります。
年の離れた兄弟は実家を離れていたので、親戚が集まっている光景は
子供心に楽しさもあったのかもしれません。
この時私は看護師を志すなど思いもしませんでしたが
祖母と母が交わしていたやり取りが体に染みついているのかもしれません。


2,祖母の在宅介護


物心ついたとき祖母は足が不自由で四這い歩行で家の中を移動していました。介護保険制度など無かった時代です。
創意工夫して介護するしかない時代でした。

母は体の小さかった祖母を抱っこして浴室に連れて行き入浴させていました。訪問入浴もないし、シャワーチェアもないし、浴槽に取り付ける手すりや、便利な滑り止めマットもなかったように思います。
食事はお粥と梅干しとか、軟らかいおかずでした。
印象的だったのは、飲み込みの力が弱くなって行く過程で
母は片栗粉にお砂糖を入れてとろみをつけて食事介助していました。
これが結構美味しいのです。

今は経腸栄養剤や水分にとろみをつける増粘剤などがありますが
昔はありませんでした。
栄養が足らなかったと思いますが、それを注意する人もいません。
食べれるだけ食べたら良いのです。欲しいだけ食べたら良いのです。
そんな時代でした。

祖母は畳の上で布団を敷いて亡くなりましたが
床ずれもなかったそうです。


3,自然還る命


ご先祖様のお墓を両親と一緒に整理した記憶があります。
200年以上前のご先祖様達は土葬で自然に還っていました。
それを掘り起こしお墓を綺麗にしました。
土に還っているご先祖様の姿は怖いという印象は残っていません。
こうやって人は自然の一部になるんだなと
体感で私は記憶したのだと思います。

私は看護師になり過剰な延命治療する光景を見てきました。
幼い日の記憶があるからか、私はそれが違和感でした。
命は尊く、温かく、ずっと続いていくものです。姿はなくても、祖父母、両親と私は繋がっています。
もっと昔のご先祖様とも繋がっています。

母の死を通してこの大切な命にちゃんと向き合う事が出来て、私は良かったと思います。
そういう自分を取り戻せて良かったと思います。


4、これからのblog

介護の過程は私の心を表していました。
私は母の娘であることをずっと否定していました。生まれてこなきゃ良かったと想っていたからです。

私は母の事より先に自分の心を整えることを優先しました。
それは本当は母の心に寄り添いたかったからです。私はどんな人間なのか知りたかったからです。人の心が分かる人間でありたいと思っていたからです。
自分を理解し心が整うと母に優しく出来たし、母を愛おしく思えました。

命の繋がりや命の尊さ、本当の自分を大切に思えた私の経験を発信していきますね。

誰かの心に届きますように…




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