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『技術革新と不平等の1000年史』感想

ダロン・アセモグルとサイモン・ジョンソンによる、『技術革新と不平等の1000年史』を読んだ。その読後の感想について、記録しておきたい。

まずはぼくの感想を述べる準備として本書の内容の簡単な説明をする。次に、ぼくの感想や考えたことについて、これまで読んだ本の内容に触れつつ、記す。

前提

本書で言いたいことを一言でまとめてしまえば、「技術革新そのものが経済的な繁栄をもたらすというわけではない」ということだ。

過去の広範な繁栄は、テクノロジーの進歩の自動的かつ保証された利益から生じたわけではない。むしろ、繁栄の共有が実現したのは、テクノロジーの発達の方向性と社会による利益分配の方法が、主としてごく一部のエリートに有利な仕組みから脱したおかげであり、それ以外ではありえなかった。

『技術革新と不平等の1000年史 上』p30

たとえば、中世におきた技術革新は農民を豊かにすることはほとんどなく、むしろ大半の生活をより一層貧しくしたという。

当時に発明された水車・風車・蹄鉄・織機などの技術は、たしかに生産性を向上させた。しかし、そのような生産性向上によって発生した余剰は、教会や封建領主など一部に占有されてしまっていたからだ。その後、黒死病によって労働力不足が発生すると、農民側が交渉力を持ち始め、領主側も農民を確保するために賃金を上げる等、不公平さが是正されていく。

つまり、技術革新そのものが発生していても、技術革新から得られる利得の分配は、その経済的・社会的な体制に大きく依拠する。そして、先に説明した「生産性バンドワゴン」が機能するかどうかは、労働者の賃金(限界生産性)や交渉力を持つ等の諸条件によって決まるという。

よって、一部のエリートがテクノロジーの推移を決めるようなビジョンや権力を独占するのではなく、労働組合などの組織や民主主義などの制度といった対抗勢力がエリートたちの責任を追及することによって、その恩恵が分配的になるのである。

このことから、ぼくらに与えられたメッセージとしては、技術とぼくらの関係性をどのようにしたいのか、その方向づけに関与していくことが大事だということだろう。

さきほど紹介した中世の事例に限らず、技術革新がどのように社会や経済に影響を与えたのか、1000年間のさまざまな事例を踏まえて紹介されているが、中身についての詳細な説明は割愛する(公式の解説記事も公開されているので)。

さて、ぼくらは技術に対するビジョン形成や方向づけについてどのように考えたらよいだろうか。本書の重要な論点だと思われる、機械の2つの使い道について大まかな内容を説明したうえで、ぼくの感想を共有したい。

論点

技術に対するビジョンを考える上で、本書では機械の2つの使い道が提示される。

機械には二つの使い道がありうる。オートメーションを通じて労働者に取って代わるか、さもなければ労働者の限界生産性を増大させるかだ。

技術革新と不平等の1000年史 上 P259

著者らは、オートメーション(自動化)が進みすぎることを危険視する。オートメーションは労働者を仕事から追いやり、機械を所有するものと、そうでないものの格差を大きくするからである。

そして、現在のAIはオートメーションを強化するビジョンに基づいて発展していると警鐘を鳴らす。

機械が自律性と知能を持てるのなら、より多くの業務を労働者から機械に引き継がせるのは自然の流れだ。企業は既存の職種をもっと細かく特定の業務に分解し、AIプログラムと豊富なデータを使って人間の仕事ぶりから学習させ、それから人間に代えてアルゴリズムにそれらの業務をやらせればよい。

技術革新と不平等の1000年史 上 P132

 こうした考えはエリート主義的なビジョンによって補強されているという。人的ミスと人件費を抑えるためには、並外れた能力を持つエリートにテクノロジー設計を任せ、労働者を機械とアルゴリズムに置き換えたほうがよいと。

そのために、テクノロジーによる労働者の監視は正当化される。監視を通じてデータを収集することで、そのデータを元にアルゴリズムを学習させ、やがては労働者を置き換えることができるからだ。

こうした考えのもと、機械が労働者の仕事を置き換えてしまうと、労働者の力は削がれ、ますます格差を是正させるための交渉力が奪われてしまう。

さらにまずいことに、オートメーションによる人間の代替が常態化するならば、人間の能力が育まれなくなり、やがて人間にしかできない役割が求められることすらなくなってしまうだろう、ということも懸念される。

それでも人間の能力は無視できると言い続けるうちに、そのとおりになってしまう可能性は十分にある。オートメーションが断行されるにしたがって、社会的相互作用や人間による学習が締められる余地は徐々に狭まると予想されるからだ。

技術革新と不平等の1000年史 下 P137

つまり人間の社会的能力が蓄積されるはずの機会そのものを失ってしまうのだ。そうなると、人間の潜在能力が削がれてしまうだけでなく、オートメーションに対抗しようという社会的圧力そのものが発生しなくなってしまう。

このままでは以前のような労働者への繁栄の共有・分配に対する圧力が失われ、中世の社会がそうだったように、技術革新による余剰が一部の人間によって占有されるような「二層社会(P165)」になりかねないというのである。

そこで、著者らは労働者の限界生産性を増大させるテクノロジーを推奨する。

たとえば個別教育にテクノロジーを活用することが例として挙げられる。それまでは教室で一斉に、かつ同じペースで学年ごとに、一律で教育をするのが当たり前だったかもしれない。しかし、今では生徒個々人の学習の特性をテクノロジーによって把握し、学習内容やペースを調整することは可能であり、実践され始めている。

これは、教育者が学習者に対する手段を増やし、より学習を豊かにすることができる。また、それだけでなく、学習者のポテンシャルを引き出すことにもつながる。

その他、製造業において仮想現実や拡張現実を活用して業務の自由度や柔軟性を高めたり、訓練に有効活用をしたりする等の例も紹介されている。

つまり、今のオートメーションへ偏りがちなテクノロジーの方向性を、労働者がよりその能力を発揮し一人一人の生産性を高められるようなテクノロジーが開発されることを推奨するようなビジョンにシフトするべきだというのだ。

ここまでの話を踏まえて、次にぼくの感想を整理する。

感想

技術革新そのものが生産性を上げて社会全体を豊かにするのではなく、技術がどのように社会に使われるかのビジョンによって、その技術が誰に資するものになるのかが左右されるという実証的な議論については興味深かった。

何よりも、今の社会における技術のビジョン、すなわちオートメーションの推奨に対する警鐘については刺激を受けた。

というのも、個人的には、「AI×BI」論、すなわちAIなどの技術によって労働を自動化し、人間を労働から解放し、BI(ベーシックインカム)によって所得を保障するというビジョンを支持しているからである。

ちなみに、BIとは、個々人に対して他の収入と関係なしに、特に支給されるための条件を設けず、定期的な所得を現金で支払う制度のことである。

この「AI×BI」論は、「働かざる者食うべからず」に対するアンチテーゼである。労働をしたくない人も生存のために労働を強いられるのが今の社会だとすると、生存はBIによって保障することで労働と生存を切り離そうという考えだ。

しかし、上述した「オートメーションは人の潜在能力を削ぐ可能性がある」という点だけでなく、オートメーションによる対策としてのBIについても、著者らは否定的である。

なぜなら、BIは直接に労働者に機会を生み出し生産性を高めることに直接寄与しないからだ。むしろBIは、不平等な社会のあり方が不可避なので再分配によって是正するしかないという敗北主義的な意味合いがあるという。

つまり、BIを導入することは、二層社会の傾向への対抗にならず、むしろその分断を固定化してしまうというのだ。そのため、むしろ、BIを導入するのではなく、セーフティネットの強化と共に、有意義で報酬のいい仕事を作るように努めるべきだというのが、著者らの主張である。

前者の意見、オートメーションによって人間の潜在能力が削がれてしまうのではないかという点は、あまり考えられていなかった視点だった。

余談であるが、以前に友人とこういう議論をしたことがある。「食事がすべて自動化されたとき、人間にどのような影響があるのか?」と。

野菜や肉などの生産から調理まで、人間が関与しなくなったとする。人手が不要になれば、それらの工程での労働の苦しみからは解放され、また消費者としてもいちいち自分で何かを作る手間もなくなり、品質も安定して楽になるだろう。

しかし、そうした社会になった場合に何か大事なものが失われてしまうのではないか?という議論だ。

その場で友人とどんな議論をしたかの詳細は割愛する。ただ、その場の議論で、オートメーションはもしかしたら手放しに喜んでよいものではないのかもしれない、という小さな懸念を抱いた。そうした懸念が思い起こされ、より強まったのである。

後者については、あまり納得できていないところがある。というのも、BIはむしろ労働者に資するだろうと考えるからである。

BIがあれば、労働者は労働に依らない所得を得ることになる。この所得によって、生活を維持させるための力を得ることができる。すると、これまで労働で得た所得だけに頼っていた状況よりも、その職場に対する交渉力を持つことができるようになる。

なぜなら、労働で得た所得に頼っていた状況であれば、その職場から解雇された場合に生活の糧がなくなってしまうからである。そんな状況で労使で交渉しようとしても、労働者側が強く意見を主張することは難しいだろう。

しかし、BIによって労働と生存が切り離されていれば、たとえ交渉によって解雇されたとしても生存自体への危惧はだいぶ緩和される。より強く、自分たちの尊厳への配慮や労働環境の是正に対する意見を主張しやすくなる。また、意見が通らなかった場合に別の職場の選択しを探すための猶予も、BIによって確保することができる。

このように、BIは労使交渉における労働者の交渉力を高める方向にも寄与すると思われるのである。

また、BIがあることは、すべての人に消費者になる権利を与える。これまで余裕がなかった人たちにも、生存に必要なお金が供給されることで選択肢を与える。また、消費者になれば、享受するサービスについて不満があるときに意見を申し立てることもできる。

たとえば、本書で懸念されていたオートメーションなどが、不当な労働者の扱いにつながっていることが分かれば、意見を申し立ててそれを是正するように働きかけることを、消費者として行うこともできるようになるのではないだろうか。

また、どうしても改善されなければ、そのサービスをボイコットすることもできる。BIによって所得に余裕があれば、他のサービスを選択する自由も拡大するため、こうした行動を取りやすい人も増えるはずだ。

このように、BIはこれまで生活に余裕がなかった人たちへ消費者としての力を与えることで、経済に積極的に関与させられると思うのである。

ここまで色々述べてきたが、これらの内容は本書に刺激を受けて生煮えの状態であるので、引き続き「AI×BI」については考えたい。

最後に、技術のビジョンについて、自分たちの社会、とりわけ日本がどのように考えているかについて触れている本を参照して、自分たちの課題としてもこのテーマについて捉えられるようにしたいと思う。

その本とは、『スマートな悪』である。なお、kindle版で読んでいるので引用箇所のページは記載しない。

この本では、日本政府が第5期科学技術基本計画によって提示している「超スマート社会」というビジョンが紹介されている。

「超スマート社会」とは、サイバー空間とフィジカル空間が融合し、フィジカル空間のデータをサイバー空間が効率的に処理することによって、人間社会の問題を解決し、これまでの無駄が排除されるような、すべてが「最適化」された社会だという。

たしかに「スマート」な技術によって利便性が高まること自体は喜ばしいことである。しかし、この社会においては、人間は主体的な存在である必要はなくなる。

なぜなら、人間が主体性を発揮すると、無駄が生じるからである。「最」適化のためには、人間の能動性はむしろ邪魔なのである。

スマートさの本質には少なくとも次の二つの側面がある、ということだ。すなわち第一に、それが余計なものを排除するという正確を表すものであるということ、そして、第二に、それによって人間が受動的になるということだ。

さらにいうと、超スマート社会においては人間が受動的になるだけではない。人間は「最適化」を実現するための変数/資源に過ぎなくなる。

超スマート社会という理念によって新たに付け加えられる要素とは、そうした最適化を考案する主体が人間である必要がなくなり、そうした作業がサイバー空間において自動的に処理される、ということだ。

つまり、人間が超スマート社会のために自らを最適化するように「緩やかな制御」をされる、そのような社会が超スマート社会のありようとなる。言い換えれば、人間はテクノロジーのシステムの歯車となるということである。

そもそも、超スマート社会が目指す「最適」は必ずしも倫理的に正しいことを目指すかは分からない。場合によっては暴力的な結末を効率的に実現してしまうこともありうる。

そうした社会において、人間がシステムに従属し無抵抗なまま暴力に加担してしまう悪のあり方を、「スマートな悪」と呼んでいる。

ここで、『技術革新と不平等の1000年史』と合流しよう。

もしここで述べられている日本が掲げる技術のビジョンに対して懸念するのであれば、ぼくらは別の技術のビジョンを考え、それによって技術の方向性を是正しなければならないだろう。

改めて確認すれば、技術の進歩の方向性はぼくら自身が選択するものなのだから。


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