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あなたちゃんとはあなたであり私であり俺である、自己投影の多様性は虹ヶ咲にこそ存在する
私は【ラブライブ】ガチ恋オタクである。私の言うガチ恋とはキャラそのものにガチで恋する化物のことである。
かつて真姫ちゃんに命を燃やした日々も今は遥か。当コンテンツについて多くを語れるほどの力は有していない。無印劇場版以降アニメも見ていないからだ。
なぜ燃えに燃え狂っていた真姫ちゃんから、ひいてはラブライブから離れてしまったのか。その実態、私の拗れた性癖のもつれはなんなのか、ラブライブというコンテンツになぜついていけなくなってしまったのか、我々はどこから来たのか、何者か、そしてどこへいくのか。それらは過去記事にて話をしているのでここでは深くは触れない。
要約すると真姫ちゃんは好きだがガチ恋オタクなのでにこまきは好きじゃないから次第に熱くなれなくなっていったという話である。
そんな私が悠久の時を経てラブライブへ帰ってきた。そして喜びを得た。その話をすべくここへ来た。要するに虹ヶ咲アニメ一期が面白かったという話だ。
自己投影の自由、多様性
改めて私は先日初めて【虹ヶ咲学園スクールアイドル同好会】のアニメ一期を見た。そして感動した。ストーリーの良さもさることながらライブシーンの存在しない記憶パートの連続は流石に特筆せざるを得ない。特に璃奈の【ツナガルコネクト】にはあまりにも多量の涙を流した。
なのでまずはガチ恋オタクとしての話をする。
私はスクフェスもスクスタもやっていない。なので【あなたちゃん】について多くを知らない。だがそれでも【あなた】という存在を出し時代の向かい風に晒されるガチ恋オタクを救うという力技には感服した。
特に一期終盤の歩夢の怒りと嫉妬は非常に考えさせられるものがあった。あそこに存在する【侑ちゃん】とは侑ちゃんのことであり、あなたであり、私であり、俺である。つまり歩夢は俺のことが好きなのだ。
この意味が分かるか。本質は「自己投影」の質である。歩夢の侑ちゃんへの態度は即ちあなたへのものである。あなたということは私のことである。
これを「侑ちゃん」という1人の登場人物として捉え、カップリングとして見ることは解釈の自由だ。同様に「あなた」と捉えガチ恋自己投影するこれもまた解釈の自由である。
そういった意味で「あなたちゃん」という概念は非常にガチ恋オタクとして都合が良い。これこそが前述した質の良さ、なのだ。
そしてそれらの真髄、真なる力を発揮しているのは公式本【さかさま虹ヶ咲!?】と作中流れたMVの一人称視点パートで接種できるむせ返るようなガチ恋エナジーであろう。これに関しては流石に特筆せざるを得ない。
虹ヶ咲アニメではだいぶガチ恋寄せにしていたように見受けられはしたがそれでもこれらとの温度差は圧巻である。
そもそもがおそらくラブライブというコンテンツはそういう方向性であった。にこまきやらなんやらといった二次創作視点により私の眼が曇ってしまっただけだろう。昔からラブライブはこうだった。
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この時代にこのような公式が一人称視点のガチ恋怪文書をお出ししているというのを攻めと取るか時代遅れと取るか。私は俄然前者である。そのために侑ちゃん、つまり「あなた」ちゃんがいるのだから。
今となってはこのようなガチ恋文化に抵抗を示す人も少なくない。エモ文化の発達によりむしろマイノリティですらあるだろう。だから侑ちゃんでありあなた「ちゃん」という概念はある意味でそういった時代に即していることを現す存在であると私は考える。自己投影をしてもしないくても良い、多様性である。
ここでいう多様性とはガチ恋勢を切り捨てない、という意味である。公式としてはもうあなた「ちゃん」であるし侑という存在も出す。だがガチガチに否定固めをしないからガチ恋勢の存在も否定しないでいてくれる。グレーゾーンでありながら供給も与えてくれるという不思議な関係だ。
だからこそ私はここにいる。かように世界は、ここの「虹」は美しいということを伝えるべくここにいる。
ソロ路線というストーリーの良さ
ガチ恋目線以外で見ても虹ヶ咲のストーリーはとても良かった。個人的にはストーリーとして圧倒的な力を有していたのは2話、6話、7話であった。これらは後述する。
ニジガクは全員がソロアイドルという在り方によりアニメストーリー的にも過剰なカップリング売りがなく非常に見ていて快適であった。
私は限界関係性オタクでもあるため適度な関係性パワーは大好物であるがラブライブへはガチ恋エナジーを求めている。そしてそれにニジガクは応えてくれた。
序盤にラブライブなんかでなくていいじゃんと言ってまさか本当にラブライブへ出ずに終わるとはといった若干の困惑はあったが基本的に最初から最後までソロの延長線なのがニジガクらしく個人的には好評である。
そこには【それぞれが好きなことで頑張れるのなら】という無印路線も少し感じられた。なによりも根本となる個人の信念やコンプレックスにフィーチャーした話の構成は単体として素晴らしい出来であった。
前述したガチ恋エナジーの多さに対し、虹ヶ咲はストーリー展開もそこまでカップリングだなんだといった展開にあまり重きを置いていないように感じた。基本的には個人の問題があり、それを誰かが乗り越えられるきっかけを与える。
誰かと一緒に乗り越えるだとかみんなでどうこうするといった方向性は薄かったように感じる。最後は自分という方向性が個人的にとても好みである。芯の強さとは弱さの描写にこそ宿るのだから。
虹は璃奈や彼方の話のようにミスリードの使い方が非常に巧妙であった。
そんな中でもエマと果林のメイン回は関係性オタクの方向性を感じられた。やりたいことがあってスイスから来たエマと充実はしているがやりたいことをできていない果林の対比とそんな対照的な2人だからこその関係性は限界関係性オタクとして血が騒ぐものがあった。
顔を見せるためのボードという前向きさ
先に述べた通り私は虹ヶ咲だと267話が
好きである。特に6話【笑顔のカタチ(⸝⸝>▿<⸝⸝)】は本当に話の良さが頭一つ抜けていた。これこそソロアイドルというニジガクの方向性の良さを凝縮したような至極のエピソードであった。
後半の部屋から出てこなくなった璃奈に対する各々の距離感はグループアイドルには出せない良さがある。ソロアイドルである以上ステージには1人で立たねばならない。スクールアイドル同好会では支えてあげることはできても璃奈のステージは璃奈だけのもの。
それを作るのも、そこに立つのも璃奈1人である。だから誰もステージに立てなくなる璃奈を支えることができなかった。でも友達として寄り添うことはできる。 背中を押すことはできるが解決してあげることはできない。そういったバランス感覚が非常に秀逸である。
結局6話においてなんだかんだで多くの人に支えられながらも璃奈は自分のステージを見つけて作り出し、自分なりにスクールアイドルの形を見つけてそこに立った。それはあまりにも美しく尊ばれるべきものである。
璃奈の精神の成長だけではない、各々が弱さを持っているからこそ璃奈の弱さを否定しなかった同好会のみんなの精神もまたあまりに美しい。こういった弱さとコンプレックスを持っているからこその展開が虹ヶ咲は素晴らしく秀逸でまた性癖に刺さる部分である。
「笑顔のカタチ」というタイトルも本編の力の強さを助長している。璃奈ちゃんボードは顔を隠す為の道具ではない、本当の顔を見せる為の武器である。それを現すサブタイトルとして非常に素晴らしい。
MVの強さもまた然り。
まさか璃奈が最も存在しない記憶強めであるとはこの海未のリハクの目をもってしても見抜けませんでした。
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「寝不足」に対する認知の違い
【ハルカカナタ】も非常にストーリーの出来が良好であった。
7話までの寝ている彼方ちゃんの印象が全く変わるミスリードの教科書のような展開。彼方と最も近い存在である遥の見ている姉の姿は同好会のみんなが見ている彼方の姿とはまるで違った。
彼方がよく寝ているのは「そういうキャラ」なのだと7話を見るまでは思っていた。そのメタ的な隙を突かれた。これが非常に素晴らしい。
妹の前では甘えさせる姉であるが、友達の前では甘える側になる。このパワーバランスは非常に愛おしさが溢れて止まなくなる。守るだけの存在であった妹と支え合う仲になり、スクールアイドルとして高め合うライバルにもなるという成長の形も非常に完成度が高かった。
【Butterfly】の歌詞も遥やスクールアイドル同好会のみんなとは違う道を往くが隣にいることは変わらないし「夢を追う」という点は同じであるという点をフォーカスしており本編解像度の高さが光る。
あまり存在しない記憶パートは多くなかったのだけが心残りではあるがそちらはさか虹等別媒体で接種できるので良しとする。
そして2話であるが、私は性癖の関係上確実にアニメを見る前からかすみんのことが好きなのは分かりきっていた。
そして求めていた以上の力が存在していたため非常に満足である。そして【無敵級*ビリーバー】という最強の力もある。
故に2話の話とこちらは下記にて詳しく語っている。
いこう 明日へ
そんなわけで虹ヶ咲一期アニメは無印からの復帰組として非常に楽しくまた新鮮な気持ちで楽しむことができた。再三になるが各々のソロ路線という方向で個人がちゃんとフィーチャーされていたのが好評価である。
だからこそ油断することはできない、新たなバトルフィールドはすぐそこまで来ている。虹二期はあらすじを見る感じ結局ユニットを組んでどうのこうのというソロ路線ではなくなりそうな気配を醸し出しているからだ。
面白ければそれはそれで良い。だが虹にはガチ恋オタクとして多少の燃料を接種させてもらった。その甘い汁を忘れられるかどうかはまた別の話だ。
それでも見ないことには全ては始まらない。長らく敬遠していたラブライブというコンテンツへ帰ってこれたこそ戦いをここで終わらせてはならない。
だからこそ、何よりも私は【いま 駆け出したいんだ】
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