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世界のカルトカルチャーレポートvol.4 / サウナ × ヌーディズム

20xx年の伝説を想像することをミッションとした組織 MVMNTが、世界中で起こっているまだ生まれたばかりだけれどこれから大きな変化に繋がるかもしれないムーブメントを取り上げます。

第4回は、ベルリンにおけるヌーディズムをピックアップ。全員が裸になる男女混合のサウナ、真の生命力を回復する試み「FKK」、情報コードからの解放についてなどを紹介します。


サウナ × ヌーディズム

ベルリンの冬は憂鬱だ。寒さもあるのだが、日照時間がとにかく短く、朝9時くらいに明るくなり夕方4時くらいには陽が落ちて夜のような暗さになる。明るいといっても陽の光が出ているわけでもなく、常に灰色の曇り空のイメージだ。ベルリンの冬にメンタルがやられてしまう人も多い。厳しい冬を乗り越えるために、ビタミンDを摂取したり、エクササイズをしたり、キャンドルを焚いたり、誰もが自分を癒して、ヘルシーな状態を保つための習慣や楽しみを持っている。

わたしの楽しみの一つはサウナに行くことだ。ドイツのサウナは、アウフグースが特徴である。アウフグースは、フィンランド式サウナなどにみられるロウリュ(熱せられたサウナストーンに水をかけて蒸気を発生させる)によって発生した蒸気を、スタッフがタオルなどであおぎ、熱風をおくってくれるものだ。ベルリンのサウナには、アロマやハーブ、ヒーリングサウンドやメディテーションといった様々なタイプのアウフグースがあり、異なる温度や湿度で提供されている。アウフグースはもちろん、休憩スペースも充実しており、ベッドやソファーで、ゆったり心身を休めることができるのも嬉しい。

そして、もう一つドイツサウナには特徴がある。ドイツのサウナは男女混合な場所が多いのだが、サウナ室では、全員裸にならないといけない。わたしはこれに抵抗があり、サウナデビューに少々時間がかかった。初めてサウナに訪れた時、サウナ室やシャワースペースなどで大勢の知らない裸の男女を前にして、どこに目をやっていいのかわからず、緊張して、ソワソワしていたことを覚えている。自分が裸でいることも恥しかった。
しかし、3回目あたりくらいから、妙に裸を意識している自分が恥ずかしくなった。なぜなら、サウナでは、全裸にもかかわらず、あまりにもみんな普通に過ごしているからだ。その光景や空間の中で過ごしていると、だんだん自分も周りも裸でいること自体、全く気にならなくなった。むしろ、妙な安心感というか、みんなが裸でほのぼのしていることが平和だなと感じるようになった。

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裸というものは、一体どんな状態なのだろう。
ベルリンで通っていたヨガ教室の更衣室が男女混合だったり、大学の昼休みにクラスメイトたちがほぼ裸でビーチバレーをしていたり、湖に泳ぎにいったら全裸の人がいるのは当たり前、公園にヌーディストエリアがあったり、普段からドイツでは、公共の場で裸に出くわす機会が多い。日本とは異なり、裸をエロや性的な目で見ることが少ない気がする。恥しさというものもあまりない。
ドイツでは、Freikörperkultur(フライクーパークルトゥア)、通称「FKK(エフカーカー)という文化があり、ヌーディズム・裸体主義をさす。これは、工業化が進んだ近代的都市生活から「真の生命力を回復する試み」すなわち「生活改良運動」として自然の中での裸体生活をモットーに19世紀末ドイツに勃興した裸体運動である。
また別の視点として、特にFKKの支持者が東ドイツに多かったということから、監視社会からの解放という点もあげられている。秘密警察などの厳しい監視体制のもと自由が制限されていた東ドイツでは、裸でくつろいだり、自然の中で裸で過ごすことで、抑圧からの精神の解放を促すことが目的だったともいわれている。こうした流れもあって、ドイツでは裸に対しての抵抗が少なく、むしろ日常の風景の一部として受け入れられている。

秘すれば花という言葉のように、隠す美学・恥の美学のある日本において裸というのは性的関心の象徴でもあり、タブーでもある。このような文化圏で育ったわたしにとって、裸に関する感覚の違いは、ある種の新興宗教的な斬新な光景でもあり、興味深くもある。

これは、考えてみると、情報に対する意識の違いでもあるかもしれない。
監視社会や社会的階級による抑圧、自由の制限などの歴史があったドイツでは、GDPRなどのように個人データやプライバシーの保護に対して、人々は非常に敏感である。上記でも触れているが、さまざまな社会的抑圧からの解放としてのFKKの流れなども、社会の中でジャッジされる自分の様々な情報コードからの解放ともとれる。サウナや湖や公園のヌーディストエリア、クラブなど裸で過ごすような環境において、個人が特定されるような写真撮影は禁止されている。また、ベルリンのクラブでは、誰もが入れるクラブばかりではなく、入口にバウンサーと呼ばれる門番のような人がいて、イベントの内容やクラブの趣旨に合わせ、ふさわしい人を選別しているクラブも多い。特にベルリンのクラブでは、クィアやフェティッシュなど、多様なジェンダーやセクシャリティにひらかれたイベントが開催されている。その環境が求めるモラルを兼ね備えた人のみ許可することは、イベントの質を保つと同時に、観光客の好奇の視線や差別や偏見が生む攻撃からオーディエンスを守る意図もある。
社会的な個人情報と同時に身体を情報の一つとして捉えた時にも、このような事例は、安全に自分の社会的・身体的な情報コードからの解放が行えるような環境を担保することに繋がっているともいえる。

日本は、対照的で、個人データやプライバシーの保護に対しては、あまり気にすることもない。しかし裸という情報に対しては、とても敏感である。現代では、裸というと性的関心やタブーなものとして捉えられがちだが、明治以前などは、男女混浴だったり、農民の服装も裸に近い格好だったので、裸に関する意識は寛容だった気がする。その意識変容はまた追って調べてみたいところだが、現状日本では、様々なセクシャリティが裸で過ごす環境を想像するのは難しい。もしあったとしても、果たしてそれは自分にとって安全な環境なのだろうか?性的興味が混じった目で見られることも予想されるし、外見や容姿における様々なバイアスでジャッジされる恐れもある。日本をはじめアジアはヨーロッパに比べ、ボディシェイミングやルッキズムの風潮が強いように感じている。
ベルリンは、どちらかというと自然体を求めることが多く、体型や容姿も内面と同じく個性の一つで、そのままのあなたというものに興味をもたれることが多い。ノーメイクは普通だし、太っていることが醜いというわけでもない。自分磨きといっても外見よりも個性そのものを磨くことが重要視されている。
それを考えると、日本で社会的な情報コードや自分の身体という情報コードから安全に解放される守られた環境はあるのだろうか。日本において、安全な環境を作るには、どんなモラル、ルール、意識変容が必要になってくるのだろうか。

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サウナで裸になることや裸の人たちと一緒にいることが気にならなくなったことは、自分にとっても面白い発見だった。全裸で、隣にいる見知らぬ男性と話をしたり、移動したりすることも普通になった。 

老若男女、ジェンダーやセクシャリティ、人種や社会的階級も異なる人たちが、みんな気にせず裸で、サウナを楽しみ、自分を癒している光景は、本当に平和で優しい。これが他の場であっていたら、印象や振る舞いなども変わるのであろう。また、男友達や男性の知り合いとは、サウナに行くのには抵抗がある。
プライベートの空間でもなく、公共の空間とも言い難い、共通意識とモラルによって守られた空間、そしてほぼアノニマスだからこそ成立した環境なのかもしれない。

わたしたちは、常にジェンダーやセクシャリティ、人種や社会的階級など様々なフィルターや特定の基準、バイアスによってジャッジされている。
これらの構造は、自分たちの精神の健康にも影響し、生きづらさにもつながっていく。
オンラインではなく、フィジカルな空間でこうしたフィルター、バイアス、ジャッジメントから安全に解放される環境は、私たちがヘルシーに生きていくための貴重なセーフティースポットにもなり得るだろう。




text / Saki Hibino


https://www.instagram.com/saki.hibino/


ベルリン・パリなどヨーロッパを拠点に活動するリサーチャー、エクスペリエンスデザイナーキュレーター 、ライター/コーディネーター。 Hasso-Plattner-Institut Design Thinking修了。デザイン・IT業界を経て、LINEにてエクペリエンスデザイナーとして勤務後、2017年に渡独。現在は、アート、デザイン、カルチャー、テクノロジー&サイエンス、エコロジーなどの領域を横断しながら、国内外のさまざまなプロジェクトに携わる。



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