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【箸休めnote】推しに言われて一番嬉しかった言葉について


あけましておめでとうございます、Susanです。
2023年もぬるっとゆるっとスタートしましたが、マイペースに更新しますのでどうぞよろしくお願いいたします。

一発目のnoteがいきなり箸休めかよって感じですが、年始にでろでろに怠けて溶けきった脳内を活性化させるためにゆる~く更新します!

推しに言われて一番嬉しかった言葉


私のオタク遍歴noteを読んだことがある方はご存知の通り、私は様々な界隈で様々な形で、その時々にオタクを盛大に拗らせてきた人間である。

その中でも、一番沼が深かったのは「推しと会話、コミュニケーションがとれる現場」だった。

それまで基本ジャニーズしか通ってこなかった私にとって、ステージ上と客席の距離を保っていた推しが私と対等の目線に舞い降りてきた時の衝撃といったらとんでもなかった。

私の話す言葉に推しがリアクションしてくれたり、答えてくれるなんて、本当に本当にすごいことだったのよ。まぁ、それは置いといて。(置くんかい)

私には、推しに言われて嬉しかった言葉がたくさんある。名前を呼んでもらったり、好きなものを覚えてもらったり、流行りネタをぶっ込んで面白回答をしてもらったり。言って欲しい言葉をリクエストこともあったし、斜め上をいく回答をもらって大笑いしたこともあった。数え切れないくらい、推しに会いに行って、数え切れないくらい、いろんなことをしてもらった。

今になってみると、本当にこんなに面倒くさいオタクのリクエストによく答え続けてくれてたなぁと感心するし、もっと優しいオタクでいたかったなぁと反省したりもする。

そんな思い出の中で、私には推しに言われて一番嬉しかった言葉がある。今でもふと思い返して、この気持ちが根本なんだなぁと初心に帰る。

この時はまだコロナ流行前だったので、対面のサイン会だった。当時の推しのサイン会で、こんな質問をしたことがある。


ー ブースに入ってサイン書いてる間の会話 ー

🐰「〇〇くん、私の好きなところ教えて〜」
(↑今考えると、もうこの質問がすでにめんどくさいオタク代表)

推し「んぇ〜っとね、気を遣わなくていいところ」

🐰「???え、気遣ってないんだ?」

推し「なんか、気ィ遣う質問して来ないから」

🐰「(笑)たしかに!?」

推し「うん(笑)ありがとう」

ー サイン受け取って終わり ー


この一連の流れが、本当に何気ない会話だが、私にとっては一番嬉しい言葉をもらった瞬間だった。未だに忘れられない一瞬として、色濃く記憶に残っている。

推しにとって、私という存在が「気を遣わない存在」であること。

その事実が、ただ、すごく嬉しかったのだ。

オタクって基本面倒くさい


オタクって、自分の言って欲しい言葉を要求したり、自分が望んでいる反応を返して欲しいと願ったり、本当に面倒くさい生きものだと思う。

少なくとも以前の私は、推しの反応一つで喜んだり悲しんだりイライラしたりモヤモヤしたり、常に感情を絶叫系のジェットコースターに乗せてるようなオタクだった。

推しを「自分の思い通りの回答・対応をしてくれるか」や「私にファンサをしてくれるか」で評価するオタクになりたいわけではないのに、どこかで期待して、落胆してしまう自分もいるのが事実なのだ。

純粋に音楽やパフォーマンスだけで幸せになれたら良いのだが、「応援する」という行為の中にはきっと「自分を認めてもらいたい、感謝されたい」という承認欲求が含まれている。

だからこそ、「応援していると知っていてほしい、気づいてほしい」という気持ちが生まれるし、その想いが強くなれば「私に何かファンサービスしてほしい、思い通りの反応をしてほしい」という気持ちを生むのだろう。

それでも、推しには自由に生きて欲しい


推しには自由に生きて欲しい。思うように楽しく活動して欲しい。

ごく当たり前のことを言っているようだが、実はこれができていないオタクがかなり多いのでは?という話である。

推しには自由に生きて欲しいと思いつつ、推しが「自分の理想と違う行動や言動」をすると「もっとこうして欲しい」「なんでこんなことするの?」といろんな制限を押し付けがちではないだろうか。

私たちは、無意識レベルで推しを自分の望む形に変えたがるし、コントロール下に置こうとする。自分の応援が相手の中に存在していることを証明したい、という感情は非常に厄介なのだ。

「推しに自由に生きて欲しい」と「自分の応援を推しに認めて欲しい(思い通りになってほしい)」という相反する二つの感情を持ち合わせている限り、上手くコントロールしていかなければ、楽しく推し活することは難しくなってくる。

私は最近いつも「自分が推しに対して願っているのは、どんな姿なのか?どんな姿が見たいのか?」「自分がして欲しいと望んでいることが、私にどんな感情を与えてくれるものなのか?それが、推しにとって何の利益になるのか?」を考えてみるようにしている。

そう考えると、結局最終的に思うことは「推しには自由に生きて欲しい」「自分のやりたいように望む活動して欲しい」ただそれだけで。そのうえで、私が幸せな気持ちになれるならば、それが最高だなと。本当は「私の身勝手な願望に振り回されて欲しくない」と分かっているのだ。

だからこそ、推しに「気を遣わなくていい」と言われたことは、「私の言葉に、この人は決して靡かない」という証明でもあったように思えたし、私にとって最高に嬉しい言葉だったのだろう。

最近はSNSの普及によって、実際に会いに行かなくとも「こちら側の身勝手な願望が、ダイレクトに本人に届いてしまいやすい環境」になっているように思う。

それにともなって、この言葉は本人に届いてほしいのか、もしも届いたならばどんな感情になるのか、想像力が必要になってきた。「言葉」には良くも悪くも、人の感情を揺り動かす絶大な力がある。(この話をすると、いつもドラマ「3年A組―今から皆さんは、人質です―」を思い出す)

もちろん私たちオタクが何を言おうとも、誰の言葉にも左右されることなく自由に活動してくれたら良いのだが、推しはサイボーグではなく私と同じく感情を持った生身の人間であることを忘れないでいたい。

私はささやかながら、本人の活動のノイズにならないように、また他の人が純粋に応援したい気持ちのノイズにならないように、配慮できる人間でありたいと思うのだ。



2023.01.18.
Susan


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