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西洋的思想・アプローチって結構狭い

こんばんは。
今日もおつかれさまです。
って書いてあるnoteへの愛が募るばかり。
今まではなんだか一人で孤独に書いてたみたいだけどこうしてテキストの画面を開くとメッセージが飛び込んできて私の心が少し微笑む。

大学が始まって朝から晩までもちろんずっと英語で話して英語で考えてってしていると息をつく暇がないみたいでこの感覚、やっぱり私の母国語は日本語なんだなって思う瞬間。きっとネイティブ寄りに読み書きできるのかもしれないけどどうしてもスピードとかそこまで速くないし多分喋りもうまくないし(元々まあ外向的な性格でもないのでこれは言語関係なく)ずっと英語漬けだとふと日本語で話したくなったりする瞬間があったりする。Twitterとかネットで「読む」日本語はたくさんあるしそれに触れる機会もだいぶ多いと思うけど実際に口頭で喋る日本語は今のところ週に一回あるかないか。日本語で考えているときは日本語を頭の中で再生しているから喋ってるような錯覚、勘違いに陥るんだけど現実では一言も発していないのでこうリアリティと頭の中の音声知覚との乖離?みたいなのに悩まされている。

今日は授業が三つぶっ通しでEthics and Society(倫理応用?)のゼミとNew Zealand Politics and Policy Makingっていうニュージーランドの政治と政策の講義と都市計画のゼミでした。後半は頭がぼーっとしてきて(知恵熱?)もうクラクラしそうなくらいだった。とにかくキャンパス人だらけで(新歓みたいな感じ?)目が回るしリーディングめちゃくちゃ多いし朝から倫理についての議論するし後半は今の政治情勢についてのレクチャーがんがんだし、もう頭が割れちゃうかと思った。そういえば今日三つ受けた授業全部にプラトンが出てきて前の学期に『国家』についての授業と試験があったよね、こういうところめちゃくちゃ「西洋」っていう感じがする。日本とかだったらこうバリエーション的に日本の哲学者とかアジアの思想家たちを引っ張ってこられるけど西洋って結構狭いんだなって最近すごく感じるようになった。西洋は狭いっていうのは張本人たちがやっと最近気づき始めた事実でこれで世界が変わる!とは思わないけど少しは目を覚ましてって欲しいよね。特にニュージーランドの場合は植民地国家なのでマオリの文化や思想をちゃんと理解して表に出していく必要があるんだけどまあそんなことするわけないよねっていうので最近はムーブメントも活発になってきているのでもっとマオリ語必須にするとか(一応公用語なんですけど?)教育のカリキュラムに組み込んでいくところからだよね。

そんなことを考えながら一日が終わりました。
今日はとりあえず休む。おやすみなさい。

mugiho

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