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私の心と体が同じ場所に立っている


毎日日記を書くことができなくなってしまったのはいつからだったかな。
私は何かにつけて三日坊主で夏休みの一行日記は最終日にまとめて書いていたし続けると宣言して始めた日記帳は結局どれも半分までもいかないままで隅に追いやられる日々だった。

そんな毎日が変わったのは(そんなドラマチックなことでもないのだけど)高校に入って私の英語の先生に出会ってからだった。彼女は人生で私の文章というものに可能性を見出してくれて私の文章を褒めてくれた。今まで読むことは好きだったけど書くことに関してはいつも何を言われるかおどおどしていた記憶がある。私の書くことに別に誰も興味を持っていないしただの自己意識の塊だと恥ずかしくてブログも書いては消して外から見られる「私」の存在を確立し維持することが怖かった。そんな自分がいることを認めたくなかった。

そんな中で初めて「私」という存在の文章を認めてくれたのが彼女だった。
自己承認欲求を認められただけかもしれないけどその文章の、言葉の受容は私の心に新しい風を吹かせたみたいでそれから私は毎日のように文章を書いた。半年から一年で書き込まれたモレスキンを一冊また一冊と埋めていった。本棚には黒と紺と赤の背表紙が並ぶ。

熱心に書いていた時期は社会の私と言葉を通して浮かび上がってくる私の両方が存在していた。現実と非現実との間で揺れていたのかもしれない。街をゆく人々はただ歩いているだけ。私の頭の中は思想と悩みと不安と悲しみでいっぱいなのにとどこにもやりようのない不満をくすぶらせていた。遅くきた反抗期かもしれないと妙に自分を小馬鹿にしていた時期もあったけどそれはずっと続いた。

それを考えなくていいのは読んだり書いたりすることから離れている時だけだと気づいたのはここ数年だった。前よりも外に出る機会が増えてから。外に出てみるとこんな話を、世界の悲しみや死と性と生き方についてや思想について話せる相手がほとんどいなかった。それは私の心の寂しさに拍車をかけた。それから外にいる間はちゃんとその世界に馴染めるように動くようにした。集まりに行ったらちゃんと楽しんでいるようにした。群れるのは人々の習性で私は観察者だと割り切ろうとした時期もある。でも所詮私も人間で帰れる場所が欲しかった。

この自粛(ロックダウン)期間は私はひたすら自分の世界に留まり続けることができた。そしてもう少し私に猶予を与えてくれたのか大学は今学期はずっとオンラインでリモートでの仕事がいくつか入るようになったのでとりあえず大学の学期が終わるまで心をこの世界にしまっておこうと思った。

私の心と体が同じ場所に立っている。

思い出す世界:映画『心と体』イルディコー・エニェディ(2017)

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