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24歳で逝った日本人女子アスリートのパイオニア・人見絹枝の願い~日本が世界に誇るJアスリート・道徳教科書に載せてほしいスポーツエピソード(9)

1 はじめに 銀メダルだけではない超人的な活躍
2 教材  24歳で逝った日本人女子アスリートのパイオニア・人見絹枝の願い
3 おわりに 人見絹枝の3つのエピソード 

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1 はじめに 銀メダルだけではない超人的な活躍

 人見絹枝といえば1928年のオリンピック・アムステルダム大会での日本人女子選手初のメダル・800m銀メダルが有名ですが、彼女のすごさはこれにとどまりません。

 このオリンピックを挿んで行われた国際女子オリンピック大会にも2度出場し、現在では考えられないような超人的な活躍を見せています。

◇第2回大会 100ヤード3位。円盤投げ2位。250m6位。走り幅跳び優勝(世界新)。60m5位。立ち幅跳び優勝。個人総合優勝。
◇第3回大会 60m3位。走り幅跳び優勝。三種競技(100m・走り高跳び・やり投げ)2位。400mリレー4位。個人総合2位。

 現在は実施されていない種目もありますが、走・跳・投とあらゆる種目に出場して、上位の成績をあげていることがわかります。しかも、1929年までに人見選手が作った世界記録は7種目10回にも及びます。

※当時のオリンピックの女子競技はほんの一部のみ実施されていて、アムステルダム大会以前は女子の陸上競技は行われていませんでした。これに対して国際女子スポーツ連盟のミリア夫人は「女子の陸上競技を採用すべき」と申し入れましたが、拒否されたため世界大会として女子オリンピックを開催。第1回パリから始まりイエテボリ、プラハ、ロンドンと4回行われています。これはスポーツにおける女性の地位向上に向けた重要な大会だったと言えます。

2 教材  24歳で逝った日本人女子アスリートのパイオニア・人見絹枝の願い

 日本人がオリンピックで初めて金メダルを獲得したのは1928年のオランダ・アムステルダム大会です。陸上・三段跳びの織田幹雄選手と水泳・200m平泳ぎの鶴田義行選手の二人です。しかしこの大会ではもう一人忘れてはならない選手がいます。日本人女性として初めてメダルを手にした人見絹枝選手です。陸上800mでドイツのラトケ選手とデッドヒートを演じ、銀メダルに輝きました。

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 今では女子選手が男子選手と同じ種目でオリンピックに参加するのは当たり前ですが、それまでは「女性らしい」種目でなければ採用されませんでした。その後考え方が徐々に改められ、オリンピックで女子の陸上種目が行われるようになったのはこのアムステルダム大会からなのです。

 これは日本でも同じでした。人見選手が活躍した頃はようやく女子スポーツに対する理解が進み始めていました。しかし、いまだに女性がスポーツをすることに対して偏見をもっている人もいる時代でした。

 人見選手が初めて国際大会に出場したのは1926年にスウェーデン・イエテボリで行われた第2回国際女子オリンピックです。人見選手はこの大会に日本からたった一人で参加しましたが、遠い北欧のスウェーデンにたどり着くまでにロシアやフィンランドなどに滞在し練習をしました。そこで見たものは気軽にグラウンドに集まり、陸上競技を楽しむ仕事帰りの女性や子どもを連れてやってくるお母さんたちの姿でした。笑顔でスポーツに親しむ女の人たちを見て「こうした気軽にスポーツをする環境の中から強い選手が生まれるのだ」と思った人見選手は日本の将来の女子スポーツの理想を見る思いでした。

 大会に出場した人見選手は一人で100ヤード走、250m走、60m走、円盤投げ、走り幅跳び、立ち幅跳びの計6種目に参加しました。最初の100ヤード走はいきなり3位で表彰台へ。3週間前に始めたばかりの円盤投げはなんと2位。走り幅跳びは世界新記録で優勝。60m走は5位でしたが、立ち幅跳びも優勝。表彰式でセンターポールに日の丸が上がると観衆から「ヤポン!ヒトミ!(日本!人見!)」の歓声が上がるほどの活躍でした。さらに人見選手は個人総合1位となり名誉賞として国際女子スポーツ連盟会長のミリア夫人から金メダルを受けました。

 当時のスウェーデンの新聞は「落ち着いた振る舞い、慎み深さ、高い能力にもかかわらず謙虚な態度。彼女は愛されている。観客はこのたった一人の日本人選手に共感した」と人見選手を称えています。

 初めて国際大会を経験した人見選手自身は次のように述べています。

「次の大会には、多くの日本人女子選手が参加してほしいものだ。ヤマトナデシコの実力を世界の国々に示し、日本の素晴らしさを世界で輝かせたい。そのためには、このままではダメだ。技術の進歩や記録の向上はもちろんだが、日本人の女子スポーツに対する認識を改めなければならない。日の丸を揚げるために後輩の女子選手に奮起してほしい。」

 しかし、人見選手は1928年のオリンピック・アムステルダム大会の後に極度のスランプに陥りました。この苦しい気持ちを手紙に書いてあのフランスのミリア夫人に送ると返事が返ってきました。

「お手紙ありがとうヒトミ。あなたはまだ23歳です。私の知っている選手は25歳や28歳になってもまだ一流選手としての頑張っています。前回の大会であなたの素晴らしいパフォーマンスを見た多くの人々はあなたの技術が今最高点に達しようとしていることを知っていますよ。次回のチェコ・プラハでの第3回大会で元気な姿を見せて下さい」

 この返事を受け取った人見選手は何回も何回も読み返し、その温かい言葉に勇気づけられました。

 次の第3回国際女子オリンピックは人見選手だけではありませんでした。念願がかなって5人の後輩たちとともに世界の舞台で戦うことになったのです。5人は15歳から20歳の若い選手ばかり。人見選手が最年長のリーダー役となりました。

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 80mハードル走で18歳の中西選手が5位。人見選手がアンカーを務めた400mリレーは日本チーム4位でした。人見選手は今大会も活躍し、60m走で3位。三種競技で2位。そして、走り幅跳びで優勝。大会2連覇です。

 走り幅跳びの表彰式で君が代が流れると、背後から5人の日本人選手たちの君が代を歌う声が響いてくるではありませんか。人見選手の心にこれまでのさまざな想いがこみ上げてきます。ポーランドのコノパスカ選手やイギリスのガン選手が走り寄って両頬に祝福のキスをしてくれました。異国の友がこんなに喜んでくれるなんて人見選手は感無量でした。

 チェコのスポーツ誌は日本人選手のことをこう書いています。

「日本の選手は模範的な謙虚さ、振る舞いの親切さ、心の底から出てくる規律正しさで人々を魅了し、この面で他のすべての国民の男女選手の手本になれる。このようなことを考えると、なぜ短時間で大きな進歩を遂げたか理解できる。すべての言動に伴う真剣さ、克己心、真面目な勤勉さこそが日本人をアジアのトップに立たせたに違いない」

 大会終了後、人見選手は帰国までにポーランド、ドイツ、ベルギー、フランスなど各国を転戦します。また、帰国後は人見選手の話を聞きたいという声にこたえて日本中を講演会で飛び回りました。こうした休む暇もない状態の中で人見選手は体調不良に疲労が重なっていきます。そして翌年、体調が悪化した人見選手は24歳という若さでその短い生涯を閉じてまったのです。

 チェコのプラハにあるオルシャニ墓地には「KINUE HITOMI」の文字が刻まれた記念碑があります。この記念碑にはこう書かれています―「愛の心をもって世界を輝かした女性に感謝の念を捧ぐ」。

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※「特別の教科 道徳」のA「希望と勇気、努力と強い意志」、B「友情、信頼」に関連。

※発問例「3回の海外遠征で人見選手が学んだものは何だろうか」「現在の日本の女子スポーツの発展に果たした人見選手の役割を考えてみよう」

3 おわりに 人見絹枝の3つのエピソード

①甲子園の入場行進・校歌斉唱は人見の提案だった
 テレビで見る春・夏の甲子園大会での選手のプラカードを先頭にした入場行進や勝利校の校歌斉唱は今や当たり前の光景ですが、これを発案したのは当時、大阪毎日新聞社員だった人見絹枝です。彼女が参加したアムステルダム五輪での開会式の入場行進、金メダル・織田幹雄の表彰式でセンターポールに上がる国旗と君が代の演奏の感動をもとに発案し採用されたのです。

②張学良との単独会見
 1929年に満州・奉天で中国・ドイツ・日本による三国対抗試合が行われました。この大会の主催者が張学良でした。絹枝は大阪毎日新聞の運動部記者だったので、この会見がセットされたのです。張はスポーツにも関心があり人見絹枝の活躍を知っていました。張は絹枝に気さくに話しかけたようです。

③ママさん選手だったラトケに感激
 人見は、あの銀メダルを獲得したアムステルダム五輪が終わってすぐにベルリンで行われた競技会に参加しました。ここで800mでデッドヒートを演じたラトケとも再会しました。ここでラトケが二児の母親でもあることを知りました。人見は「練習することさえ並大抵ではないだろうに」と頭が下がる思いだったと言っています。今でこそママさん選手は少なくありませんが、当時の日本人には驚きだったに違いありません。

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<参考文献等>
*人見絹枝『スパイクの跡』(平凡社 昭和4年 ※大空社から復刻版『スパイクの跡 伝記・人見絹枝』1994年 が出ています)
*田中良子『不滅のランナー人見絹枝』(右文書院 2018年)
*小原敏彦『燃え尽きたランナー 人見絹枝の生涯』(大和書房 1981年)
*小原敏彦『女子陸上の暁の星 人見絹枝物語』(1990年)
*HatenaBlog「チェコの情報 人見絹枝(ひとみきぬえ)プラハの記念碑」


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