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エンドオブライフ。命の閉じ方のレッスン

佐々涼子さんのノンフィクション。
もう少し前に読もうと手元にあったけれど、なかなか手に取れず、ようやく。

余命が限られた人たちの看取り。

私が初めて人の死を意識したのは19歳の時、祖父を自宅(実家)で看取ったとき。

心筋梗塞から始まり大病を繰り返し、最期は前立腺の癌で72歳で旅立った。なかなかわがままな人で、入院していても自宅にすぐ帰りたがり、最期2週間は大学が夏休みだったこともあり、家族みんなで時を過ごして旅立った。

祖父は私にとって一番の見方だった。三人兄弟の真ん中の私はどうしても放置されがちな立場。そんな私を祖父は丸ごと愛してくれた。ピアノやランドセル、学期始まりごとの新品の洋服…たくさん甘やかしてくれた笑。祖父は私が物心つかない頃から病気と付き合っていたので、病気があることが普通でそのまま生きてくれるものとどこかで私は思っていたように思う。けれどいよいよ最期になり、自分でいろんなことができなくなっていく祖父をみてはじめて「死」を感じた。

「死」を感じたというより、最期に祖父が全身で何かを渡そうとしてくれている。それをしっかり受け取らなければ、という感覚だった。祖父からいろんなものをもらうのはそれまで当たり前だったけれど、これが最期なんだ。そう思うと寝ている祖父の側から離れることができなかった。

「もらうことを当たり前と思っててごめんね」「じいちゃんを煩わしいと思ったこともあったごめんね」などごめんという言葉が頭に浮かぶ。そんな時、最期はもう話せなかった祖父は何故か私の心の声が聞こえているかのように何度も頷いてくれた。

そんな祖父との最期の時間は最期にもらえた宝物だ。

大抵の人は死から目を背けたくなる。けれど本当にそれでいいのだろうか。大切な誰かの死は確かに耐え難い。けれど亡くなるその人の想いをしっかり継いで、生き続けさせることができるのは遺された人だ。最期の声を目を背けることなく聴くことは、遺された人の使命なのではないか。

その声をきちんと聴くためには「死」とどう向き合うかで大きく異なってくるように思う。祖父とも最期はそんな貴重な時間が過ごせたけれど、もう少し私が成熟していたら、と思うと切ない

また自分自身もいつか死ぬ。終わりがあるからこそ今を大切にできる。終わりがあると知っているからこそ大切な人を大切にしようと思う。
それを理解しているかどうかは、「生」をよりよくするためにも必要なのではないか。
人は生きてきたように死んでいくから。

ちゃんと生きたいからこそ、ちゃんと死と向き合おう。

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