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【掌編小説】やさしい風

 ふと気がつくと、武から連絡が来ていた。彼は同郷の友人で、いわゆる幼なじみというやつである。今では付き合いはほとんどないが、こうして急にメールが来たところで別段驚くことはない。

 今度、皆で旅行にでも行かないか。

 そう誘ってきた彼は、昔の彼のままであった。なじみの友人三人と過ごす三十路の夏盛り――その何とも言えない響きに、光一郎は少しむずむずした。


 当時から何かを始めるのはいつも彼であった。

「カラオケに行こう」「喫茶店に寄ろう」「ちょっと遠出してみよう」

 そんな武の誘いを受け、光一郎はよく、マコや優史と一緒に遊びまわっていた。

 武は昔から人一倍目立っていた。彼は光一郎より一つ年上で、高校ではバスケ部のエースとして学校中の注目を集めていた。

 一人が好きな光一郎も、彼らといるときはよく笑っていた。暇さえあれば本を開いていた光一郎にとって、まるで正反対の彼は、見ていてどこか爽快であった。
 新しいもの好きのイマドキ少女マコに、冷静沈着で優秀な優史。
 それぞれが勝手をしても繋がっていられたその関係性に、光一郎はいつも安心していた。
 

 旅行は八月の中旬、武の車で行くことになった。
 大人が四人、肩を縮ませながら座席に納まり、助手席のマコが手製のプレイリストをかける。どれも十年以上前のものであったので、近頃の音楽に疎い光一郎も少し口ずさむことができた。

「なあ、この道を左だよな?」
運転席の武が言い、
「違うわ、そこはまっすぐ」とマコが返す。

 当時、付き合っているのではないかと噂されていた二人は、今では夫婦になっていた。昔から彼らの仲を知る光一郎にとっては、二人の結婚は心から嬉しいことであった。
 しかし、光一郎は彼らの結婚式には参列しなかった。光一郎だけではない、優史も参加しなかった。
 二年前、結婚の報告を受けて当然のように結婚式への参列を考えていた光一郎は、二人に結婚式は身内だけで行う、披露宴も行わないと告げられ、妙な違和感を覚えたものだった。
 目立ちたがりの武と、幼い頃はお姫様になりたいと言っていたマコの結婚式である。むしろより盛大に行われると思っていたのだが、二人は「好みが変わったんだよ」としか言わず、また同席していた優史も納得している様子だった。
 そのため光一郎は参列の代わりに祝いの品を贈ったのだが、その豪華なペア食器は今でも現役らしい。
 そう、運転しながら武が言っていた。

 しばらく山道を走ると、窓の外がひらけて見えた。灰色が凝縮された都会の街とは違い、遥かな青と緑がある。
 全く縁のない土地のはずだが、光一郎はどこか懐かしさと切なさを覚えた。

 隣に座る優史は黙って外を見ている。
 光一郎は窓を開けてすうっと息を吸い込んだ。ぬるりとした空気が、体の内側を巡っていく。近くに川は見えないのに、鼻の奥でぷんと川の匂いがした。
 ――一瞬、何かの映像が頭をよぎり、光一郎ははっと瞬きをした。気持ちのいい山の景色が、やさしい風を受けてきらきらと映っている。
 光一郎は窓を閉めた。

「どうした?」

 優史が訊いた。光一郎は「なんでもない」と首を振って、そのままぐるりと頭を回した。川の匂いが抜けなくて、妙に頭が重かった。
 

 コテージに着くと、光一郎は自分の目を疑った。初めて来たはずの、見たはずの場所。それなのに、目の前に佇む緑色の小さなコテージは、たしかに光一郎の記憶の中にあるものだった。

「どうした光一郎。体調悪いか?」

 トランクから荷物を取り出していた武が、ふり返ってそう言う。
 マコと優史も作業を止めてこちらを向いた。三人は不安そうな顔をしている。
 なんだ、そんなに顔色でも悪いのか。

「大丈夫。ちょっと頭が重いけど、標高高いからだと思う。すぐ慣れるよ」

 そう言うと、三人はほっとしたように笑った。

 コテージの鍵を開けて、皆で荷物を運び入れる。
 二階建てのコテージは、一階にはベッドが四つとキッチン、テーブルと座布団があり、二階にはベッドが二つ、その他トイレと洗面所などがあった。

 自分の荷物を抱えたマコは真っ先に階段を駆け上がり、
「あたしは二階、男どもは一階ね!」と、まるで少女のように言った。

 光一郎は飲み物の袋をキッチンの横にまとめ、二階で荷解きをするマコを見上げた。二階の部分はロフトのようになっており、一階と空間が繋がっている。

「優史、これもう上持ってっちゃって」
「了解」

 武と優史は手際よく荷物を配置している。
 優史はアウトドア用の折り畳み椅子を両手に持ったまま、マコのいるベッドを横切って窓際に向かう。

「開けるね」

 マコは窓にかかっていたカーテンを除け、数か所に掛かっていた鍵を解いて窓を開けた。
 備え付けのサンダルをつっかけると、優史は窓の外に消えた。どうやらベランダがあるようだった。

「ねえ、僕たち、ここに来たことあったっけ」

 光一郎が訊くと、武は屈んだ姿勢のまま動きを止めた。そして再び作業を始め、

「あるよ」
 と振り向かずに言う。

 武の手元を見ると、段ボールに詰めてきた小物をテーブルの上に出しているところだった。その隙間に、一枚のチラシが挟まっている。
 手に取ってみると、それはこの近くの花火大会のチラシであった。

「これって……」

 日にちは明日となっているが、カレンダーを見ると曜日が一致しない。二日連続開催で土日に行われているようだが、今日がその二日目、日曜日であった。

「それな、今年のじゃないんだよ」

 作業を終えた武が、潰した段ボールを持って立ち上がりつつ言った。

「十年前、前に俺たちがここに来た時のだよ」

 ぎゅうっと頭が締めつけられた。また川の匂いがよみがえってくる。
 たしかに、光一郎にはこの場所の記憶があった。
 武の言うとおりなら、十年前に皆でここに来たことがある。優史やマコの慣れた様子から見ても、それは間違いないのだろう。現に光一郎もコテージに見覚えがあったし、まだ入っていない二階の間取りが想像できる。

 それなのに、ならばなぜ当時のことを思い出せないのだろうか。百歩譲って旅行のことを忘れていたのならあり得る。しかしコテージのことを思い出して、武の話も聞いて、なぜこの先の記憶がないのか。

「設置終わったよ」

 階段を降りてきた優史が武に声をかけた。

「ありがとう。テーブルも置いた?」
「ああ。今マコがランチョンマット並べてる」

 そう言って、優史は光一郎の手元を見やった。そして顔を上げ、少し困ったように微笑んだ。

「もうそろそろ作り始めないとな。手伝ってくれ、光一郎」
 

     *

 
 外が暗くなり始めたころ、光一郎と優史は数種類の料理を作り終わり、皿をベランダに運んでいく武とマコを、何ともなしにリビングから眺めていた。

「でも驚いたよ。優史って料理得意だったっけ」

 あれから二人はつまみを手分けして作ることになったのだが、優史は狭いスペースの上で手際も良く、料理も味見させてもらうと驚くほど旨かった。その気難しそうな見た目のわりに大雑把で豪快な調理であったことも、また光一郎を驚かせた。

「今も得意ではないよ。でも十年前ここで料理を手伝って教わってから、自分でも色々試してみてるんだ」
「へえ。……教わったって、誰に?」

 光一郎も料理は得意な方であるが、優史と違って几帳面に一つ一つ分量を量っていくタイプである。もし優史が光一郎から教わったとすれば、こんな作り方はしていないだろう。

「武かマコ……ではないよね。あの二人は料理なんかしないし、なんなら今みたいに配膳係やってそうだし」

 光一郎が言うと、優史は悲しそうに笑って言った。

「そうか、お前まだ思い出せないんだったな。その通り、二人は十年前も配膳してたよ」

 その代わりマコは旅行の手配を全てやってくれたし、武は力仕事を率先してやってくれた。皆で協力して本当に楽しい旅行だった、と優史は言った。

するとそこへ、

「終わったよ! もう始まってる、酒持って行こ!」

 二階からマコが身を乗り出し、光一郎たちに手を招いた。
 優史は冷蔵庫からビールとワインを取り出し、光一郎にグラスを持ってくるように言った。
 光一郎はその通りにしようと立ち上がるが、

――今日は風がやさしいから、花火もきれいに見えるよ。

 ふと誰かの声が聞こえて、光一郎は周りを見回した。
 優史はもう階段を上りはじめている。二階から、武とマコが楽しそうに騒ぐ声が聞こえる。
 
 ――今のは、誰だ?

「どうした。グラス見当たらないか」

 優史がふり返って言った。ラジオか何かのスイッチが入ったのだろうか。「ううん」と返して、光一郎は急いで荷物を探った。
 
 グラスを持ってベランダに行くと、武は柵にもたれ掛かって花火を見ていた。椅子に座っていたマコが、優史から受け取ったワインボトルを開けている。

「あ……光ちゃん、それここに置いて。注いだげる」

 マコに言われて、光一郎は左手に二つ持っていたワイングラスをアウトドアテーブルの上に置く。右手に重ねて持っていた三つのグラスは、優史が引き取ってビールを注いだ。

 三人はワインを飲まなかった。そして光一郎はビールを飲まなかった。それぞれ好きなものを食べ、飲みながら同じ場所に集まるというのは、高校生の頃から変わらない彼らの在り方であった。

「ほい、武」

 優史が両手にビールグラスを持って、武の右横に並んだ。優史にビールを差し出された武は、「サンキュ」と笑って受け取る。

「きれいだね」

 マコが自分のぶんのビールを持って、武の左隣についた。光一郎も彼らの列に加わろうと、ワイングラスに目をやった。

 ――二つ。ワイングラスが二つある。
 これは自分が持ってきたものだ。間違えた? いや、彼らの嗜好は把握している。それに三人のビールグラスはちゃんと持ってきている。
 ワイングラスは二つともワインが注がれていた。二つ置かれていたからって同じく皆の好みを分かっているマコが、何も言わずに二つともに注ぐだろうか?

「光一郎、早くこっち来いよ」

 武がふり返って言った。光一郎は慌てて片方のグラスを持った。
 ……何だ?

「……ああ、すぐ行く」

 光一郎は気の抜けた返事をして、優史の隣に立った。
 
 ベランダから見える景色は、ざわつく木々と麓の街並み、そして遠くの海に浮かぶ大きな花火であった。
 まずは大きな赤、そして青、緑、ピンク、黄色。それを綺麗と思うと同時に、光一郎の耳には先程の声が聞こえていた。

――光一郎、知ってる? 今の花火みたいに色んな色が出てきたのは、明治に外国から薬剤や金属が輸入されてからなんだよ。江戸時代の頃の打ち上げ花火は、赤橙色しかなかったんだ。ほら、線香花火みたいなね。

 脳内を駆け巡るその声に、光一郎は激しい頭痛を感じる。
 ぷうんと川の匂いがしてきた。花火の輝く空が暗くなり、眼前に川の映像が広がる。

 ――これは、コテージ裏にある川だ。流れが激しくて、おいしい魚が釣れる。
 これは十年前の記憶だ。
 光一郎とシゲがクーラーボックスいっぱいに魚を釣ってきて、二人で料理をして皆で食べた。味付けは適当だったがとてつもなくおいしかった。優史が感動して作り方を聞くと、シゲは「パッとやってジャッとしたらできる」と笑った。
 マコと武は、ビールと魚を持って花火を見ていた。
 優史が気を遣って少し離れて武の右隣に立つと、シゲはワインを飲みながら楽しそうに笑った。

――「光一郎、俺たちも行こうよ」。

 はっと目を見開く。
 次々と上がる花火の光が、光一郎の濡れた頬を照らしている。
 風が吹いた。煙の匂いと、川の匂いと、あのおいしい料理の匂いがする。

 光一郎は何もかも思い出した。
 十年前のあの日、横一列になって花火を見たあの日、自分の右隣にはシゲがいた。シゲ――彼は、三人と同じく――いや、その中でも特に光一郎と気の合った、大切な親友だった。優しくて博識で、何をやらせても格好のつく憎い奴。

「忘れ物取ってくる」
 
 ――十年前、花火の途中にそう言ってシゲは川に向かった。
 光一郎も行くと言ったが、任せろと言って彼は去っていった。四人は笑顔で見送った。

 そして、そのまま彼は帰ってこなかった。

 夜に探しに出ても見つからず、朝になっても帰ってこなかった。
 明るくなってから街の警察と一緒に捜索し、川の下流で変わりはてた姿で見つかった。
 ワイングラスに花火を映し、「十年後また集まろう」と言って笑っていたシゲは、もういない。

 すうっと腹の奥が冷たくなった。
 十年前ここには五人いた。今、光一郎の右隣では細身の彼が笑っているはずだった。どうりでベランダが広いはずである。
 ぼうっと温風が吹いた。目がからからに乾く。

 シゲの遺体が見つかったとき、光一郎は倒れ、彼に関する記憶はきれいに消失した。その記憶が全て戻った今、光一郎は自分のしたことを思い知った。

 ――僕がシゲを殺した。

 光一郎は柵にかけていた左手をだらりと落とし、テーブルの方へ向かった。持っているワイングラスを減っていないもう一つのワイングラスの隣に置いて、無言のままベランダを立ち去る。

「どうした?」

 振り返って武が言った。光一郎は立ち止まって、努めて明るい声で言った。

「ちょっと忘れ物しちゃって」

「そうか。あ、帰ってくるときティッシュ持ってきてくんない? さっきこぼしちゃってさ」
「うん」
「よろしくな」

 光一郎の返事を聞くと、武はまた海の方を向いた。
 武、マコ、優史――三人とも、あの日のように楽しそうに笑っている。

「――ごめん」

 光一郎はそう呟いた。
 ベランダに背を向ける光一郎を、ぬるい風が優しく包んでいた。

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