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鏡の中の画策

 おるすばん。

 女の子は、両親も弟もいない一人だけの時を見計らって、自分ではない別の少女を想定してみるのでした。
 それは、悪戯ないたずらっこの、こころ踊る時間。

 三面鏡の前に立ち、朱い口紅を塗ってみる。
 母の真似をして、筆にすっと紅を取って、そっとラインを引いてみる。うぅのかたちにくちびるをトガラセテ、女の色気を演じてみる。半開きになる唇は、ちょっと大人の仕草でしょ。

 震える手先に、その線は残念に歪んでしまって、おかしいような哀しいようなピエロの顔。

 小さな瓶の香水を、引き出しから鏡の前に置いて、眺める。
 ヘリオトロープ。見たこともない異国の花の香り。
 ちょっとだけ指を濡らして、耳たぶにつける。急に女になったみたいに、紐で手首を縛り付けられたかのように。

 でも、胸はまだ蕾のように膨らみはじめたばかりの未熟。少女はうそぶいて、ツンとした大人の顔をしてみせる。

 三面鏡の右の鏡を、ぱたんぱたんと動かしてみる。
 私が、何十人にも整列する角度を探す。 みんな、こちらを覗いてる。鏡の奥の世界は、どこまでも果てしなく続くのね。
 左の鏡は私の左顔を映して、嘲笑う。 右と左が競い合う。

 真正面の私は、私であって、私ではない。
 だって、これは私だけが知っている鏡の顔で、みんなが見ているのは、この顔じゃないのだもの。

 みっつの鏡で、写真に撮られる時の顔を探す。そう、これ。このアンバランスに見えるこの顔で、私はいつも歩いている。誰かと話している。笑っている。見つめている。

 母のクローゼットの中の小さな箪笥を眺めるのがだいすきだった。 それはまるで宝石箱のよう。

 母が大切にしている、蝶のかたちの真珠のブローチ。
 万博の記念切手や、古いコインのちいさなコレクション。
 木箱をそっと開けると、へその緒。私と繋がっていたもの。
  
 結婚衣装の記念写真の中から、両親のすまし顔がこちらを見ている。
 両親は一緒に暮らしはじめたのが先で、後から花嫁衣裳の写真を撮りにいったそう。
 そこには、なかなかいい男の父と、ふっくらかわいい母がいて、裏には或る年の五月の日付が書かれていた。

 その後、近くの料亭で働いていたお友だちの計らいで、ちいさな披露宴もやっていただいたのですって。
 私が知るはずのない、若い両親の思い出。
 二人がいなければ、私という存在もない不思議なつながりの感覚。

 さあ、口紅を落として、こどもの私に帰る時間だ。
 クローゼットの扉についている小さな四角鏡が私を叱る。たしなめるようにこっちを向く。そう、元の通りに全てをしまおう。何もなかったように。

 高校を卒業して、私服で通う女子大生活。
 みなが花のようで、可憐な蝶が舞う、匂い立つような毎日。

 少しは、女の子らしい恰好をしてみたいな。

 そう言ったら、バイト先の洋服屋の人がプレゼントしてくれた、レースの白い衿のパールのボタンのブラウス。 甘くて、くすぐったくてふわっとかわいらしくて、白のプリーツのミニスカートとお似合い。
 私がいつもこのブラウスを見つめていたこと、知ってたのかしら。

 でも、私は未だにお化粧をどうしていいか わからない。
 ピンク色の口紅だけでは、あきられてしまう。

 招待されたお化粧教室。ピーターラビットの小さな可愛いパレットには筆でのせる口紅みっつと、目に塗るアイシャドウみっつ。

 小さなまんまるの鏡の前で、はじめてのせる青いアイシャドウ。いきなり塗りすぎちゃって、青ざめたたぬきの形相。

 綺麗なおねえさんに、くすりと笑われてしまった。そっと化粧水を含んだコットンを目に当てられて、涼しくなる。かわいいわね、と余裕のやさしい大人の女の人の指で、拭ってくれた。

 ムーミンのガールフレンド、スノークのお嬢さん。
 あの子はお洒落なわがままな女の子。空想好きで、理想の男の子を夢見るうぬぼれ屋さん。
 飛行鬼が叶えてくれる三つの願いのうちの二つは、そんな彼女のせいで、台無しになった。

 一つめの願い。
 あの船首の飾りの女の人の像と同じ目にして。睫毛くるんくるんのぱっちりお目目に。それはまるでおばけのようで、彼女には似合わなくて。
 ムーミンが見惚れた女の人みたいになりたかっただけなんだよね。

 二つめの願い。
 ムーミンはやさしいから、彼女の目を元通りにしてあげてって。乙女ごころがわかったのでしょうか。
 二つの願いが聞き届けられ、結局何も変わらなかった。世界の大損失。 世界平和とか、世界に愛を、が叶えられずに。

 女の子はみんな鏡を見るんだよ。 おしゃれがすきなの。
 フィリフヨンカだって、赤いドレスに赤いニット帽。ムーミンママにはハンドバッグ。スノークのお嬢さんには金色のアンクレット。前髪にはお花を。

 いちばんのうぬぼれ屋さんは、ミムラかな。頭のてっぺんから足のつま先まで、自分のことがとてもすきだもの。

 フラメンコの舞台で踊る時、日本人の私のままでは上手に入れない。
 妖艶なスペイン女の気分で、胸も上げ底に装って、大胆不敵な台詞を繰り返し再生して、いつもとは違う挑戦的な指先の朱を目の前にかざす。

 長くてばっさばさしたカラスのようなつけ睫毛をつける。
 マスカラも上手に塗れないから、誰かのアイラインの助けを待っている。目を開けると、戦闘用化粧が出来上がってる。ああ、この顔の女なら、大胆に踊りきるしかないと覚悟が決まる。
 踊っている私は、その心臓の音と反比例して、不遜の振る舞い。

 口をとがらせて、口紅を塗っているときの女はきれいだと想う。
 そんな大切な仕草は、あなたの秘密をばらしているようだ。

 手鏡を持って、結った髪を確かめる。
 うなじの後れ毛が、これ以上ゆるくならないように、撫でつける。どうして後ろ髪にさわる時、女は口が半開きになるのだろう。軽く、あ、と発音して、どこか誰かの視線を意識してしまうんだろう。

 私のいつもは、大切な誰かにだけ気づかれる程の薄化粧。
 ほんの僅かな今日を気づいてほしい、微かなメッセージ。

 ひとさし指で、耳に練り香水をつけて、首をかしげる。
 小さな頃と同じ、変わらぬ仕草。近づいた恋人にだけわかるような悪戯をする。

 目の片側にわかるかどうかぎりぎりのラメの線を入れておく。
 青ざめたシャドウも、ほんの少しだけ、まぶたの端に。
 素顔の私より少しだけ、女らしく色香のあるような錯覚を起こす程に。
 目を閉じて近付いた時にだけわかるような、碧の色。

 ちっちゃな花のピン止めを、クロスで耳の上につけておく。
 ここには、髪をかき上げてほしい願いがこめられている。

 淡い桜色のマニキュアを塗って、ふぅふぅ待ってる時間。
 自分の爪のかたちが桜貝のそれのようで、ロマンチックで、誰かの肩に手を回す時、ふと夢を見られる。

 ブラウスの下には、ちいさなペンダント。
 胸元を開けなければ、発見できない欠片のような小石。ボタンを外せば、レースの下に、きらりと光っている。

 誰かのためだけに、忍ばせておく誘惑。
 どきどきして待っている、その行く先のない思惑。

 鏡の前で、あてどもない心を、いつまでも持て余して。



「水無月の残り香」 第27話 鏡の中の画策
 今より若かった頃の話。
 今は、そうね、ため息しか出ないもの。


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💧 「記憶の本棚」マガジン


いつか自分の本を作ってみたい。という夢があります。 形にしてどこかに置いてみたくなりました。 檸檬じゃなく、齧りかけの角砂糖みたいに。