水菜月
映す。キリトル。 風に吹かれてシャッターを切る。 写真と言葉の融合する実験。 ✜ すてきなイラストに言葉をつけたりもします ✜
カメラと一緒に散歩。
エッセイのような、コラムのような。すきなこと、ただのささやき。
雨の音を聴いていると、記憶の中の風景が蘇ってくる。 私小説めいた読み切りのエッセイです。 気になるところを齧ってみて下さい。 私的な想いや恋、写真、すきな本や映画を散りばめて。 4シリーズです。 「行き先のないノスタルジア」 「雨と僕の言の葉」 「水無月の残り香」 「忘れられない恋」
No book, No phrase, No Life
水菜月です。みなづきの漢字は水無月ですが、ナシがさみしいので 菜に替えています。六月生まれです。 クレッシェンドになる物語を書いています。 ジャンルは主に恋、甘々、くすっと笑えるもの。 noteでは短編を中心に発表していますが、長編の掲載もしていきます。 以下マガジン収録ごとにポートフォリオを置いていきます。 (*かっこの中におよその文字数が入ってます。) ✜ エッセイ 記憶の本棚 new! 「記憶の本棚」 2022年春より開始 全4シリーズの私小説めいたエッセイで
いつも遠くにばかり光を見ていた。 希望はいつだって先の先の方にしかないような気がしていた。 中間の長い路には、散りばめられたものがあるのに それには目もくれず 暗がりにしかすぎず こちら側には何も映っていなかった。 自分の存在にさえ 見えないのか 見ようとしないのか 見たくないのか そんなこと一つ答えを出さないままに生きていた。 ただ自分の中に何も灯っていないのかというと 決してそうではない。 小さなロウソクの炎が、ちらちらと横切る。 別につかまえなくてもいい
まもなくクリスマスという或る日、ここの館長から連絡があった。 実は八雲図書館に載せてもらうのは1年半振りになる。よく私のこと覚えていてくれたな。 自発的に書かなくなったので、いつやめてもおかしくない。 ところが、風前の灯火になると、誰かが手を差し伸べてくれて、なぜか企画に参加したりすることになる。有難いことでござる。 しかも、彼は「エッセイ」書かない?と聞いた。 今までちんまりとした物語しかここには書いたことがないのに、なぜエッセイだったのか。 だいたい、エ
しばらく振り(1年半かな)に「八雲百貨店」の 「八雲図書館」に文章を書きました。 ご無沙汰しておりました! 八雲百貨店とはネット上の架空のデパート。 主催はSUNLIGHT-ONE PROJECTさん。館長はモグさんです。 今回は2022年12月26日(月)7時〜29日(木)20時の88時間限定! クリスマスが終わり、年末進行の時期ですが ぜひお立ち寄りくださると嬉しいです。 * 今回私は、地下1階の「八雲図書館」にて エッセイを掲載して頂いています。 タイトルは「
* 匂いの記憶。4つの景色。 オーデコロンをつける男は嫌いじゃない。 香りが好みであれば、ちっとも構わない。 色香が漂うように、うまく感情を隠すために。 *1 ジュブルフカ ズブロッカという名のウォッカ。 ポーランドのビアウォヴィエジャの森!で採れる、バイソングラスという 長い葉っぱが漬けこまれている酒がある。 ポーランドの発音なら、ジュブルフカ。 日本なら、桜の塩漬けの葉や 蓬が少し近い香りだろうか。 いや、それは優しすぎるな。 ちょっと独特の青臭
煙草。今は酒専門なので全く吸わないが、若い頃、粋がって吸ってたわずかな時期がある。 お酒を呑むと、急に一本だけ吸いたくなる癖。微かな欲望。おいしいわけじゃなく、酔いを助長するためだけに吸っていた。 そんな僅かな病理なので、自分では煙草は買ったことがない。家にいる時は父のセブンスターがあるから問題ない。 不良高校生のように一本くすねて、自分の部屋で音量を上げたヘッドホンをつけて、ゆっくり吸った。 灰皿の存在がきらいだったので、舐め終わった苺ドロップの小さな丸い缶
巴里とか、フランスとか、そのエッセンスに片想いしている。 SORTIEという名の、日本とパリで同時発行された雑誌がだいすきだった。小さい冊子の中に、かわいい世界がおもちゃ箱のように詰め込まれていて。 SORTIEはフランス語で「出口」。英語のSALTY(塩辛い)じゃないよ。 蚤の市、かわいい切手、マティス美術館、こどもの視線、ピカシェットの家、コクトーの教会。どこもかしこも訪ねなくてはいられない気分になる。 その雑誌を発行していた、その名は「パロル舎」。文京区
自分の生まれた街に、一度行ってみたい。 そんな風に思い始めたのは、いつだっただろう。 引っ越して十年以上、私の中ですっかり忘れていたあの街。 大学生になって、電車でその街の駅を通り過ぎるようになった。 遠かった時には思い出さなかった街の記憶が、こうして毎日駅を見かけることで、徐々に甦って行く。 その駅に用事はない。行くためにはそれなりの理由が必要な気がして、降り立つことはなかった。 暮らしていた家は、今もそのままあるのだろうか。 遊んだ野原は? 怪我をし
*返歌 昔の人は、手紙で、言葉だけで、恋をはじめた。 私が思い描く「返歌」というのは、大和和紀さんの「天の果て、地の限り」の中の、飛鳥時代の歌人、額田女王と大海人皇子(後の天武天皇)が交わした短歌のことを意味している。 実際の歴史上の人物だが、その本の内容が事実に即しているかはわからない。ただの宴席での座興という説も読んだ。ただ私が、ロマンチックな恋の返歌と想って大切にしているだけだ。 万葉集に残るその歌。蒲生野の遊猟に出かけた時に、大海人皇子の兄であり、額田
恋をした。 そして、あっけなく散った。急降下して、墜落した儚い恋。 会った瞬間、その笑顔に目が離せなくなって、身体中に彼の声が響いた。あっという間に恋に堕ちていた。あの日の奇跡にも思えてしまう夜を、私は生涯忘れることができないだろう。 あれは秋がはじまったばかりのある夜。空気が一気に夏から秋に変わったあの日。 待ち合わせの場所に向かう途中で、デパートの一階の化粧品売場を通った。いつも漂っている甘ったるい香水が、何処かで新しいことがはじまる予感を連れてくるよう
ジャン・コクトーの天使は、甘くない。 砂糖のノスタルジアで、できてはいない。 堕ちた人間の姿をした天使。 羽は確かに生えている。白い簡易なカイトのように。 彼は天使をどう譬えていただろう。 エゴイズム、憐憫、放蕩、そして、純真。 地上の快楽、侮辱、無邪気な背徳。すべての欲望を抱えた存在として。 コクトーの映画を三百人劇場(実際には300人入らない)で特集していた頃、いつもあの日の背中の羽のことばかり想い出していた。 私の場合は、羽にすらならなかった未熟な
大学一年の頃、金曜日に経済学の講義を採っていた。 その「マクロ経済学」は、英文科の一般教養としてはあまり人気がない講座で、受講している人もほとんどいなかった。 なぜ、そんな小難しい授業を選択してしまったかと言うと、教科書に惚れてしまったからなのである。 その本は枯葉色で、本格的な匂いがして、文字の線が昔っぽくて、外箱から出すとオブラートのような紙に包まれていた。 見本をみたら、その恭しさが欲しくなってしまった。 完璧な選択ミスだった。中身、難しいんだもん。
はじめてのくちづけの相手は、ヘビースモーカーの二つ年上の男だった。 私があこがれて、つき合ってもらっていただけの人。 サークルの先輩の彼は、特定のつき合ってる人はいないみたい。 気が多いモテル男。はすに構えてるかと思えば、あちこち啄ばんでみる。 * はじめて会った日から、私はその人が気になっていた。 なぜだろう。顔がいいわけでもないのにね。 誰にも媚びずに自分のペースで話し掛けるその人から、目が離せなかった。 私のことはこども扱いで、おでこをつついた
私が幾つだったら、いいのだろう。 私が幾つだったら、読まれなくなるのだろう。 年齢は偽りたくはないけど、公表する気もなく。 身体は嘘をつけないけれど、心はいつまでも嘘つきです。 恋を書こうとすると、若い時はうまく立ち行かなかった。 感情が生々しくて、どうしても熱く捉えてしまって、見つめられなかった。 恋など疾うにしないと思っている今は、その情景は全て郷愁の箱から取り出せば済む。 やっと遠くなって、心の感じたままに表現できる出発点に立てたのかもしれない。フ
凡人が歩む人生と、天才が歩く人生は、ちがう。 そう思っている。しあわせかどうかの定義は別として。 * 「月と六ペンス」は、サマセット・モームが、ポール・ゴーギャンをモデルに書いた小説だ。 ゴーギャンは、イギリスでの生活を捨てパリに移り住む。そして、最後の楽園、タヒチを見つける。四十才にして突然、絵を描くために全てを捨ててしまうのだ。 自分の才能を信じ、生涯を賭けることに揺れず、迷いがない。そのためならば、貧乏も罪悪感も自分には一切関係なく、人に認められたいとす
ハッピバースデーツーユー ♬ というわけで、作家の九藤朋さんのお誕生日に合わせて とある動画が本日午後九時に公開されます。 それは、朋さんの書籍化作品 『私の妻と、沖田君。』のボイスドラマ! 沖田君は、もちろん新選組隊士の沖田総司です。 空乃千尋さんの発案で、朋さんのファンが集まりまして 小説の一部を音声化! そして、数々のすてきなファンアートが散りばめられています。 写真と、動画編集をしてくださった企画の空乃さんは 作品中の曲の作曲もされていて、マルチな才能発揮。