16 ヨーク④
「面影を追い続ける男」 16 ヨーク ー鍵盤④ー
冬は四時ともなると、もう暗くなり始める。
ウォルムゲートの『サーティ』は、すぐに見つかった。ドアを開けようとして、指が緊張して一瞬ためらった。マリアを探すことが、こんなにも怖くなっている。
最初に目についたのは、カウンターの奥にずらりと並ぶ膨大なボトルの数だった。出来ないカクテルはないという顔をして、バーテンダーがシェイクしている。
レンガの壁に掛かったたくさんの白黒写真。素晴らしいジャズメンのポートレート。チェット・ベイカー、マイルス・デイビス、ビル・エヴァンス、死んだミュージシャンばかりだな。
店の中をぐるりと見まわした俺の目に、一枚のステージ写真が止まった。間違いない。俺は店の奥でレコードを選んでいる男を呼んで、この写真の女がここで歌っていたと聞いたが、と訊ねた。
「いえ、あの事件の前に、ここに寄っただけなんですよ。新聞記者にも話した通りでね」
また新聞記者か。
「それはいつ?」
「ええと、昨年の十一月七日です」
彼女が失踪した日だ。新聞はそのことを載せたのか。だから、みんなあんな態度で俺に接したんだな。
「ほら、あの席に座っていました。連れの男と。とても目立っていましたよ、美しい人だったから」
「来たのはその日だけ?」
「ええ、そうですね。あの後、あの写真を記念に飾りました」
写真の中で歌うマリアには、見る者の胸に訴えかけてくる迫力があった。この衣装は彼女の好きな深紅色だ。とても似合っていた。
「彼女は、その男と、懇意だったか?」
「ええ、テーブルの上で腕を絡ませてました」
俺の聞くべきことはこれで終わりだった。そう、自分の中で事実を認めなくてはいけないのだ。マリアが見つめた相手は、俺じゃない。
*
ホテルの部屋をノックした。
「誰?」という声に、「君の兄」と答えると、睦月がドアを開けた。
彼女は意外そうに俺を見上げた後に、声に出さずに「よかった」と唇を少し動かした。
二階にあるレストランは、入ってすぐにピアノ・バーがあり、豪華で落ち着いた雰囲気だった。
彼女はローストビーフについてくるヨークシャー・プディングという、シュークリームの皮みたいなものが気に入って、俺の皿に余っているものも食べた。そして代わりに、ベークド・トマトをくれた。
「お互い、妙なものが好物なのね」
年配の夫婦たちがゆったり食事をしている中で、ラフな格好の俺たちは、とても場違いな感じだった。体格のいい白のタキシード姿のイギリス人がピアノを弾き始め、店内は一段階照明を落とした。
窓から見える景色はひっそりとして灯りはまばらで、川に黒い影が映っていた。俺たちの窓にはロウソクの火と天井のシャンデリアが映り、外とは別世界のように明るい夜を作り出した。
ピアニストはアメリカ人のリクエストに応え、はずむような曲を演奏した。俺たちはどちらからともなく、いつもより早いペースでワインばかり飲んで、酔いが回りはじめていた。
何度も何度もグラスを重ね、不思議と笑い合いながら絶えず会話を続けていたが、この時どちらも心は別のことを考えていたと思う。
「いつのまにかピアノが止んだね」
見回すと、周りで食事をしていたのは同じ団体のツアー客だったらしく、みな一斉に引き揚げていくところだった。客の数より店員の数の方が多くなり、そろそろ今日一日も終わりという空気が漂っていた。
俺は立ち上がり、ピアノに歩み寄って行った。店の人に会釈して鍵盤に向かう。もう何か月振りだろうか。冷たいキー。指が自然に動き出す。この手は忘れていなかった。
*
指は鍵盤と繋がり、その奥のピアノ線に繋がり、その一台のピアノだけの音を引き出す。
男は黒いセーターに身を包んだ背中を持て余すように丸め、音と一体となる。女はその姿を見つめたまま、一瞬も目を逸らさずに近づいていった。
「なんという曲?」
「これはね、百年くらい前のラグタイム。『スティング』The Sting という映画で使われた『ソラース』Solace というんだ」
「私、あの映画、四回も観てるのに覚えてないな。ほらもっと軽快な、チャップリンが踊りだしそうな曲は知ってるけど」
睦月の口ずさむ歌に合わせて、ピアノを奏でる。
「これはメインテーマの『ジ・エンターテイナー』The Entertainer だよ。Solaceは、回転木馬のシーンでかかる静かな方」
「わかった。私あの映画の雰囲気がだいすきなのに、どうしても途中で眠ってしまうの。そしてラストの頃に目が覚める。だから話のからくりはよく知ってるんだ」
「それじゃあ、四回観てもね。ちょうど中間のシーンだから」
「ずっとこの曲を子守唄にしてたのね、私」
「どう? 眠くなる?」
「ううん。後半の、指が両方向に広がったり閉じたりして音が重なっていくメロディのところ、すごくすてき」
睦月がすきなパートを何度か繰り返して弾いた。
俺も、この一呼吸置いてからはじまる優しいメロディが、自分で奏でていても鳥肌が立つ程にすきだったから。
大きな拍手がおきて、はっとした。
店中の注目を集めてしまったが、指を止めたくなかった。気が済むまで弾き続けていたかった。
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⇒ 「面影を追い続ける男」 目次
いつか自分の本を作ってみたい。という夢があります。 形にしてどこかに置いてみたくなりました。 檸檬じゃなく、齧りかけの角砂糖みたいに。