16 ヨーク⑤
「面影を追い続ける男」 16 ヨーク ー鍵盤⑤ー
部屋に戻って来たのは真夜中だった。広々した部屋のテーブルの上に、彼女が抱えてきたであろうワインが並べてあった。
白、赤、ロゼ。また、白、赤、ロゼという順番で。
しかも彼女は全部の栓を抜いて、一杯ずつ種類を替えて飲みはじめた。
地球が回り、立ち上がるとふらふらしたが、もっと先へ先へと俺たちは構わず飲み続けた。
睦月が俺の手を引いて、首に手を回した。それから俺の耳にそっと手を伸ばして何か入れた。途端に音楽が鳴り始めた。
俺の片方の耳と君の片耳を繋ぐコードが、同じ音を運んで来ては、はじけて消えていった。
二人で静かに回り続けるだけのダンス。俺は睦月の背中に指を這わせ、鍵盤を探し当て、ひとつひとつ鳴らしていった。
首筋に、細い肩に、鎖骨に、小さな胸に、キーを探した。彼女は体の力を抜き、俺に全てを預け、俺の指先に神経を集中させていた。
そして、支えきれずにバランスを崩し、二人で床になだれ落ちた。
「あなたが熱を出した夜、日本にいる兄に電話したの」
彼女は俺の背中に手を回したまま、酔いで重くなった思考の扉を押し開けて話しはじめた。
「心配させてごめんねって。そして彼が婚約した相手が誰だか知ったの」
俺は黙って話の続きを聞いた。
*
同じ会社の私の親友だった。聞いた途端に全部がわかったわ。気になっていたあの手紙の字は、親友の字だって気づいたの。そう、私が辛いときに逃げようとすること、彼の帰りを待てないことをよくわかっていたのも、そんな私にイギリスへのチケットを取ってくれたのも、全部彼女だった。
彼は何度も兄に連絡してきて、私の消息を訊ねてきたって。どこに行ったのか? どうして?って。親友は誰にも私がイギリスにいることを言わなかった。彼にも、兄にも。
私、どこかで期待していたのかもしれない。彼が追って来てくれることを。ここに来てから毎日、日本に帰りたかった。あれは何かの誤解だったのかもしれない。それとも私の気持ちを確かめるためにあんなことをしたんじゃないか。百の可能性、百通りの話を考えた。
そして、理由も気持ちも確かめずにここに来てしまった自分に、百回後悔した。なのに、たった一つの真実を知る勇気がなくて、本当に失うのが怖くて、電話一本の勇気がなくて、途方に暮れたまま、私の全てが止まってしまった。
そんな時あなたに逢って、少なくともあなたといる間、先に行くことを考えずにいられたの。
彼は兄さんにこう言ったって。<もう辛さを抱えていられなくなりました。彼女がいなくなってから、彼女の親友がずっと傍にいて力になってくれたんです。弱い男だと思うでしょうが>って。
*
「私、どうして? 自分で自分の恋を失くしていただなんて」
彼女はそう言うと、膝を抱えて、すごい勢いで泣き出した。その泣き方はあまりにせつなくて、見ていられなかった。
日本に電話したその夜からずっと、彼女は泣きたかったのだ。だけど、こんな風にすごい飲み方で酔うことでもしなければ泣くことが出来ない程に、心が凍り付いていたんだ。
「もう泣かないで」
何を言っても彼女の傷を塞ぐことはできないとわかっていても、何か語りかけていないと、睦月はそのまま手の届かない場所に行ってしまいそうだった。
「泣くな」
俺はそんなことしか言えなかった。彼女が泣いたまま死んでしまうとさえ思えたから。
どんなに強く抱きしめても、長い間彼女は声を上げて泣き続けた。人間はどのくらいの時間、泣くことが出来るんだろう。世界で一番の記録保持者はどの位、泣き続けたのか。ごめん、こんなことを考えて。
肩を揺すり、泣きはらした瞳を強く見つめると、やっと彼女は微笑んだ。
俺は手を伸ばして、彼女の頬から顎のラインを確かめるように、何度も撫でた。睦月の細い小さな手が俺の髪をかき分け、互いにいつまでも目を逸らさずにいた。
「手、つめたいね」
彼女のその言葉がはじまりの合図となり、二人は猫のように何度も繰り返し頬をすり寄せた。俺は目を開けたまま、瞳に映った自分の姿から目を離すことなく、唇を重ねた。
「君のおかげで今日、ピアノを弾くことができたんだ」
それは本当のことだった。
二人のシルエットは一つになり、朝まで離れることはなかった。
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いつか自分の本を作ってみたい。という夢があります。 形にしてどこかに置いてみたくなりました。 檸檬じゃなく、齧りかけの角砂糖みたいに。