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余命2年と宣告された父

私の父は20才の時に、罹患したら2年以内に死ぬ病気にかかった。
主治医から渡された資料に、生存例は記載されていなかった。
入院治療にはなったが、助かる見込みの無い患者が入る大部屋での生活。
ベッドが空くということは…なので、特に子どもが病室から居なくなると大層こたえたそうだ。
当時、その病気を治療できる病院は日本に一か所、そもそも診られる先生が一人。
当時の医療で最善の様々な治療を施され、ありとあらゆる副作用と戦った。


そして、世界で初の寛解患者になった。
ただし、後遺症は残って、病弱な体質になってしまったけれど。
それが罹患から丁度2年後くらいの話だ。

そして社会復帰して、わりと青春を謳歌し、20代も終わり頃私の母と出会う。
結婚の話がでた時、父は病気のことを打ち明けた。寛解はしたが病気になりやすい、初の生存者なので予後が未知数なことを話したが、母は割と旧い価値観の人なので、妻になるなら最後を看取るのは当たり前だと思ったらしい。
そして結婚してから4年後、遺伝性の低い病気であることが判明していたので私が誕生した。
母が私と初対面して思ったことは
「お父さんはこの子の成人式の晴れ着姿を見られるのかしら?」
聞かされる娘当人としては、喜びいっぱいという訳では無かったことは少し複雑だった。

そして時は流れて2年前。
父は旅先で心臓発作で亡くなった。
最期10年はB型肝炎・肝硬変・胃がん・てんかん・心肥大と、病弱の域を超えた持病の持ち主であったが、調子の良い時には
「余命2年と言われてからの50年だ、お釣りの方がなげぇのよ」
と嘯いていた。

この話で言いたいこととか、こう思って欲しいとかはない。
なのでオチが思い浮かばない。
強いて言うなら、小康状態の時は朝の検温から夕方の検温までの間に病室を抜け出し、個人タクシーの運転手をして入院費を稼いでいたことだろうか。

どこまでもよくわからない人なのだった。

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