善悪を判断するということ

 とりあえず現状の認識は必要だから。

 私にとっての善とは常に「私が求めるべきもの」と定義され、私にとっての悪とは逆に「私にとって避けるべきもの」であった。
 だから私は他人の行動に対して「善い」とか「悪い」とか、判断することはほとんどなかった。そんなのは私にとって善悪ではなかった。

 私たちは本能的に、私たちを傷つけるような人間を憎み、私たちを喜ばせるような人間を愛そうとする。でもそれと善悪は、本来無関係であるはずだ。
 たとえば、私以外の人間をみな傷つけることを是とする人間が私に利してくれたとしても、私はその人のことを愛することはあるかもしれないが、善だと思うことはない。彼は私にとって「都合のいい人」ではあるが「人間として優れた人」ではない。人を傷つける人間は、それだけ敵を作るし、敵をむやみやたらに作る人は、いずれ痛い目に遭う。たまたま痛い目に遭わないまま人生を終えられたとしても、それは運命の女神が彼を愛していただけであり、決して彼自身の生き方がそうさせたわけではない。

 生きていくうえで、他人を裁く必要なんてほとんどない。やってはならないことをした人間には、見せしめのために罰を与えなくてはならないけれど、決して私たちの感情を和らげるために罰を与えるわけではない。私たちの不合理な感情を満たすために他人を判断し、裁いたって、結局それは他のタイプの人間からは「不当な判断」であり、それすなわち、悪と断ぜられても文句が言えないことなのだ。
 人を裁こうとする人間は、その判断によって、人から判断される。もちろん、人を判断しないようにしていたって、人を裁こうとする人間が大多数である以上は、自分もその人自身の主観的な「善悪」で判断されるしかないのだが、わざわざそういう世界に蔓延る感情的な矛盾を自分から広げに行く必要はない。

 私たちは私たちを害する人間から身を守ることができるし、それ以上の罰を与える必要はない。だが善悪というものの本質は、私たち自身のそのような生存だけでなく、私たちの隣人を守るためのものである。たとえ自分が傷つけられていなくても、他者が傷つけられているのなら、それに立ち向かわなくてはならない。それが、人が人を判断しようとする理由なのだから……私たちは、そのような現実からも、目を背けてはいけないのだ。

 「それは私には関係のない問題だ」と私は何度も自分に言い聞かせてきたが、結局は、善悪という縛りから私は逃れることができない。私は他者という存在を大切にしたいし、愛そうとしている。だから、それを守るための判断を、やはり私は必要としているのだ。

 私たちにとって何が「善いこと」なのか。私たち人間は、殺されない限りは、どんな目にあっても立ち直る可能性を持っている。私たちは私たちに加えられる攻撃が、時に私たちを他の有象無象から区別するものであることを知っている。
 私たちは私たちの苦難や試練を「善いもの」だと思うことがある。もしそうなら、彼の苦難や試練を取り除くことは、つまり助けを求めていない人を助けようとすることは、決して「善いこと」とは言えないのではないか、と思うのだ。人を守ることは「善いこと」とは言えないのではないか、と思うのだ。

 傷や戦いが私たちを強くするのなら、人が傷つかないようにしたり、人が戦わないようにすることは、それこそが「人を弱くする」ということとなり……実はそれが、人間というものを決定的に病気にかかりやすくしたり、ひとりで立ち上がれなくするような「悪」というしかないような行動なのではないか、と思ってしまう。

 死にそうな人を放っておくことは、善いことではない。死んでしまっては元も子もない。それは正しい。
 でも他に、私たちはあらかじめ定まった「人間としての正しさ」というものは何ひとつ知らないのではないか、と思うのだ。
 人を助けることや、誰かを愛することだって、見方を変えれば、誰かの美しい人生を台無しにしたり、誰かの生まれ持った長所を叩き潰してしまうようなことにだって、なり得る。
 私たちはどのような行動をとったとしても「善かれと思ってやったことが」になってしまう可能性がある。しかも、未来というものはひとつしかないから、私たちの行動とその結果が、正しかったのか間違っていたのかも、決して確認することができない。
 そのような、どうしようもない現実の中で生きているにもかかわらず、私たちの人生には、なぜか、自由がある。選択の余地がある。

 私たちの時代は、命そのものが危険にさらされることは滅多にない。
 私たちは「生きることは善いことである」という始原の善悪を、呼吸している限り、肯定するしかない。生きていなければ何も始まらないのだから、それは当然だ。生きることは善いことであり、まだ生き切っていないのに死んでしまうことは、残念であり、悲しいことだ。
  私たちは、意識的にせよ、無意識的にせよ、そのように考えて生きている。(自殺というのは『死んでしまうのは残念であり悲しいことだが、このまま生き続けることはもっと残念であり悲しいことだ』というように実行されることが多い。そのように思った理由が何であるにせよ、自殺というのは、それ以上考えられないほど悲しいことだ。尊重されるべき悲しみだ)

 生きることを善いことだと規定したとき、次に私たちは「どのように生きるのか」という難題に突き当たる。もし「私の生きたいように生きる」というような、ありふれた生き方をするのだとしたら、それすなわち「自分の本性に従って生きることが善いことである」という解を出したと見ることができる。
 他の人間の提示した生き方に従う場合でも、やはりその人には、確固とした「善悪」がある。その人自身が従うべき「道理」が存在する。

 私にはそれがない。それがないということが、どうしても私を不安にさせる。

 私は自分の意思を働かせていないのに、いつの間にか従ってしまっていることがある。他人に流されようと考えているのに、なぜか私の体は立ち止まり、口でははっきりと「NO」と言っていることがある。愚かになろうとしているのに、ふと我に返って、私は冷静に「それは間違っている。やってはならないことだ」と判断し、気づいたらそれに従っていることがある。
 私は時々こう思う。私の中には、もうすでに「私の善悪」が存在し、ただ私の意識が、思考が、その善悪にまだ追いついていないだけなのではないか、と。私の体はすでに「私の善悪」に従っているのに、私の心はまだ、その善悪の声をちゃんと聴く耳が育っていないのではないか、と。

 「自分にとって心地よい生き方が、善なる生き方なのだ」と考えたいが、しかし「自分にとって心地よいこと」が善であるならば、私が今やっていることも、決して心地よいことでないのに、しかし私はこれを「善いこと」だと思ってやっているから、それは矛盾している。
 人生は心地よいことばかりではないし、私たちは自分自身の心地よさよりも優先すべきものがあることを、知っている。自分自身の心地よさなんてものは、単なる体の心地よさに過ぎず、心と体の休息の一形態に過ぎないのだと、私たちは知っている。
 幸福なんてものは、私たちが前に進むための条件であり、決してそれ自体が目的になるものではない、ということを私たちは知っている。私たちは幸福になったうえで、私たちが生きるべき人生を生きなくてはならないのだが、私たちはその「生きるべき人生」が何なのか、分かっていない。少しも分かっていないのだ。

 私は人から馬鹿にされるのが大嫌いだ。でも私は知っている。私が、善悪という問題について、自分の人生という問題について、真剣に悩めば悩むほど、それを大人たちは嘲笑せずにいられない、ということを。
 彼らは幼い私に気遣って「あなたのことを笑ったりなんかしない」と言うが、私は彼らの心が透けて見えている。
 「若いなぁ」とか「青いなぁ」とか、彼らはそうやってすぐ、自分が捨てたものを、自分ができなかったことを、低く見積もって、笑うことによって、誤魔化そうとする。そしてその誤魔化し自体を「大人の証」などと言う。誤魔化さずに何かを成し遂げた人間は、彼らの認識にとって目の上のたんこぶだから、「天才」だとか「変人」だとか、色々な名前を付けて「自分と同じ人間」という現実から切り離そうとする。「ダメな自分」から目を背けようとする。
 私は、彼らのようにはなりたくないのだ。どれだけ馬鹿にされたとしても、私は彼らの生き方を美しいとは思えないし、この際はっきり言ってしまうが、彼らのように生きるくらいならば、私は死んだ方がマシだと思っている。だってそんな人生なんて、善悪を放棄した人生なんて、目標のない人生なんて、ただただ苦しいばかりで、他に何もないじゃないか。喜びは全部、退屈しのぎ、苦痛の対価でしかない。毎日酒に溺れるくらいしか、自分自身や人生、つまり苦しみから逃げる方法もない。そんな風に一生を過ごすくらいなら、今すぐ命を断って全てを終わらせてしまいたい。何もかもが、人生という苦しみに対する対価として不十分なのだ。
 でも私たちには、なぜか、考える自由というものがある。どのような年齢であっても、頭が働いている限り、私たちは何かについて真剣に悩む権利を持っている。他者に対して、どう接するか自ら選ぶ権利を持っている。どのような態度が人間として相応しいのか考え、自分をそれに従える権利を持っている。
 そして私たちは、まだ自分自身というものが何なのか、本当に何も分かっていない。できるのは分かったふりだけであり、何かやるべきことがある人は、その目的があるがゆえに、その分かったふりが正当化される。
 でもその目的がないのならば、自分という存在の価値が分からないのならば、私たちはあらゆる「考えない」ことを正当化するのに十分な理由は持っていないのではないか? もし私たちが、ただ意味もなく呼吸しているだけなのならば、私たちは、自分の生きる意味を考える義務を背負っているのではないか?

 日々、自分がいかに小さく、意味のない存在であるか自覚させられる。自分のやっていることの無意味さやくだらなさに、吐き気がする。
 自分が何のためにここにいるのか分からないのだ。自分がなんでこんなに苦しんでまで生きているのか、私にはよく分からないのだ。だから、それを知ろうとする。それを知らなくてはならない、と考える。

 幸運なことに、私の考えられる領域は日々広くなっていっている。前には自覚できていなかったことが自覚できるようになり、分からなかった人の気持ちが、少しだけ見えるようになってくる。
 それをはっきり示すのは、過去の自分の文章。自分が昔考えたことがいかに隙だらけであり、浅いところで立ち止まっていたか、ということを確認して恥ずかしくなるたびに、私は確かに、考えることによって、成長しているのだと理解することができる。
 かつての私が今より低劣な存在であったということを示す事実だけが、私が今やっていることが無意味でないことを示す確固たる証拠となる。
 私を苦しめるものが、一番私を安心させている。
 その奇妙な現実が、奇妙な痛みが、今私が前に進むための原動力となっている、のかもしれない。私は他に、自分がこんなことを続けている明確な理由が分からないから。


 同じことをずっと考えているようでいて、その実、一年前の私が今の私と同じ内容で悩んでも、きっと別の文章を書く。その文章からは別の空気感が生じるし、別の知性を読み手に感じさせる。今の私は過去の私よりも、多分、より複雑になっている。より高く、より綺麗になっているとも思う。もちろんその事実は、私の過去が醜く、低いものであるということを示すものでは、ない。
 彼女が私よりも考えが浅く、貧しかったとしても、それで、私の目に映る彼女の美しさが損なわれるわけではないのだ。

 私の文章には無駄が多い。

 私は最近、自分の考えをできるだけ取りこぼさずすべて書くよう心掛けている。
 私の考えていることに、余計なものは何ひとつないはずだ、と、そう盲目的に信じて、書いている。
 それは、私が何度も信じては疑い、破棄して、また拾い直してきた考えだ。今はそれでいい。
 その輪も、少しずつ形が変わってきている。前私が同じことをした時より、今の私の文章はきっと……より、私らしくなっていると思う。

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