動物のような感情に跨る理性

 滅多に見ないことだが、理性は優れているのに感情は未熟、という人がいる。

 感情が未熟と言っても、それには二種類ある。ひとつは、自分の抱いている感情に対して無自覚であり、強大な理性が完全に幼児のような感情に支配されている、という状態。
 もうひとつは、単に感情というものが理性によって常に抑えられているせいで、それ自体の力が弱まっているという状態。何かひどい目にあっても、幸運なことがあっても、どこか他人事のような態度を取ってしまう人。

 共感性は、高度な感情の能力である。自分の感情に無自覚であったり、感情を抑えつけることを日常的にしてしまっている人は、他者の感情やそこから導出される思考、理性的な判断でさえ、想像することができなくなる。相手についての情報を引き出すというコミュニケーションができなくなるのである。

 人間は通常非合理的な生き物だし、なぜかその非合理性に価値を見出す生き物でもある。この先人間が完全に合理的になることなどありえないし、私自身、そうなってほしくないと考えている。私と同じように考えている人間も、多いと思う。
 他者の非合理性を理解するためには、自分自身の非合理性を理解しなくてはならない。それは、理性だけあっても分からないことだし、同時に理性が十分に育っていなくても、分からないことである。
 どれだけ感情的に優れていても、理性が足りない人間は「合理的である」ということが分からないので、自分の中の「非合理的な部分」が何であるのかをまず特定できないのだ。

 理性を知らない人間は、非理性を知ることもできない。私たちは「何か(A)」を知るとき、「何か(A)でないもの」を理解することによって、それを感じ取る。
 もし私たちが幼い頃からすでに理性優位な生き物であったとしたら、私たちは自分たちの理性すら、それが何なのか分からなかったかもしれない。私たちはかつて、今の自分より単純で愚かであったことを知っているし、自分の犯してきた過ちのこともよく知っている。

 理性的でない人間はまず論外だ。この時代、あまりにも感情に支配され過ぎている人間が多すぎるが、彼らに対して文句を言ったり啓蒙したりするのは控えよう。大衆はゆっくりと成長していくだろうし、大衆を成長させるのは、腰をかがめるのが得意な小学校の先生のような人々の方が向いている。それは立派な仕事だが、私たちに向いている仕事ではない。

 私たちは私たちの感情を理解しよう。感情を理解するためには、理性が近づいても感情がびっくりして逃げて行かないようにしなくてはならない。
 私たちの感情は、はじめのうちは理解されることを拒む。(なぜかといえば、未熟な理性はすぐ「このような感情を抱くべきでない」と感情に鞭を打とうとするから、感情は攻撃されないために、そもそも自分が存在していないかのように振る舞いたがるのだ。だが当然、隠されたからと言って消えるわけではないのが、私たちの内的な存在というものなのだ)
 私たちは私たちの感情を優しく撫でることによって、理解することができる。あるいは、距離を置いてただただじっと見つめるのも悪くない。
 私たちは私たちの中に動物を飼っており、理性はその飼育者である。しかし動物と違うのは、感情は理性に対してその気になれば絶対的な優位を持つことができる、ということと、成長した感情は言葉を持たないが、理性と同じかそれ以上に賢くなる、ということ。
 私たちの感情は、実のところ私たちという総体にとって何がよくて何が悪いか、ということを感じ取る機能でもある。それが未熟であるうちは、危険でないことを危険であると判断したり、危険であることを危険でないと判断したりする。しかし経験を積んで成熟した感情は、私たちが感じるべきところでそれを感じ取り、そのために大きな力を生じさせることだろう。私たちは不必要な時にいつも全力を尽くすとすぐに体を壊してしまうが、必要な時にすぐ全力を出せないと、それはそれで致命的な結果を誘引することになる。
 優れた感情は、しかるべき時にしかるべき箇所に血液を流す。最も強靭な理性は、もっとも感情的になった人間の中で生じるものなのだ。


 人間、理性が育ってくると、理性だけでなんとかやっていけそうな気持ちになってくる。感情というもの自体が邪魔で、なくなってもどうにかなるものだと理性は判断したがる。
 だがそれが理性にとっての、一番の危険なのだ。理性は常に、何かに跨っている。自分の乗っている馬を殺してしまったら、別の誰かの馬に乗せてもらうしかなくなる。理性とはそういうものなのだ。
 つまり、自分の感情を殺した人間は、誰かの感情のために働くしかなくなるのだ。

 私たちの貧相な馬は、時に竜のように空を飛ぶこともある。神のように絶対的な偉大さを放つこともある。

 理性的でない人間のことは放っておこう。彼らは存在自体が馬のようなものなのだ。目的もなく走り、草を食むことしかできない。当然、自らを育てることもできない。
 だからといって、私たちの馬の部分を虐待するのはやめよう。馬自体には何の罪もないのだ。彼らに欠けているものは理性であって、感情が過度であるわけではない!
 私たちは私たちの理性の偉大さに相応しい感情を育てなくてはならない。動物の中にも、卑しいものと高貴なものがあるように、感情にも貴賤があるのだ。
 もし感情が荒々しいなら、その荒々しさに相応しい厳粛な理性を育てなくてはならない。もし理性が臆病な柔弱であるならば、それにふさわしいしなやかな駿馬が必要だ。

 人間には、人間の数だけ目指すべき理性と感情がある。それらはそれぞれ異なっているが、調和と美しさは、それに到達したかどうかの目印だ。
 私たちは誰もが、調和と美しさに関しては、理性と感情の両方で理解することができる。言葉ではなく、目の前であらわになった調和と美しさは、どんな冷たい人間の心をも震わせるし、どんな荒れ狂った人間の心をも落ち着かせる。
 動物ですら、調和と美しさの前では立ち止まるのだ。

 理性と感情が共に認めあい、愛し合ったとき、そのとき初めてその両者は存在すべき存在になるのだ。
 そこに存在していなくてはならない人間になるのだ。

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