はじめてワインを飲んだ【ショートショート】

 二十歳になってから二か月が経った。東京の大学に通うためにひとり暮らしをしていたが、ちょうどしばらくリモートの授業が続く時期だったので、和歌山の実家に帰ってくることになっていたのだ。
 両親は歓迎してくれた。兄は、私のことが大好きだからとても喜んでくれた。
「せっかくお酒が飲める年になったんだから、夕食はたくさんお酒が飲めるところにしよう」
 兄がそう言いだしたから、家族四人でどこで食べるか決めずに車を走らせた。
 居酒屋は、混んでいたのでやめた。仕方なく、イタリアン風味の誰もが知る某ファミレスで食べることにした。私自身、あの店は結構好きだった。値段の割においしいし、ワインというものも飲んでみたいと思っていたのだ。

 元々うちはそれほど高級志向ではない。家もあまり大きくないし、家具も安くて質がいいもので揃えている。だから、ファミリーレストランは私たちにとって普通にご馳走だし、楽しい場所だった。

 そんなこんなで注文をして、お酒もたくさん飲んだ。はじめて飲むワインは苦くて、正直それ以上飲みたいとは思えなかった。でも兄が「水で割ればいいよ」と教えてくれて、言われたとおり水をワイングラスについで薄くすると、おいしく飲むことができた。ピザのチーズによくあったし、気持ち悪くならず、たくさん飲むことができた。
 父も、私と兄の調子につられて普段以上のペースで飲んだため、誰よりも早く酔い始めた。

 そして父は、昔話をし始めた。私が、小学生の時バレーボールのチームに入っていたときの話のことを。


「文香にはずいぶんつらい思いをさせたと思う」
「別にそうでもないよ」
「結城さんは、文香をいじめてた」
「私はいじめられてたなんて思ったことはない」
「でも大人から見たら、明らかにいじめられてた。大人にしか見えないこともある」
「お父さんからだけじゃない?」
「いや、他のコーチの人たちも、そう言ってた。でもうまく止められなかったし、その子にも事情があった」
「それは知ってる。あの子は、家庭にちょっと事情があった。だから私も多めに見てたし、別に大したことだとは思ってなかった」
「でも……」
 父の本音を聞けるのは嬉しかった。それがどれだけ私にとって的外れのように聞こえたとしても、私はただ、父が普段言えずにしまっていたことを、正面から受け取れるのが嬉しかった。
 お酒の気持ちのよい酩酊もあいまって、私は普段なら黙っているようなことも口に出していた。
「まゆりちゃんと、さやちゃんは、性根が腐ってた。香川さんは、性格はよかったけど、人に合わせる性格だから、あの子たちに合わせるしかなかった。池田コーチは、あまり人に強く言える性格じゃなかったし、南監督は、もっと全体を見る人だった。私はちゃんと自分なりにうまくやってたし、そんなにつらいとは思ってなかったよ。というか、つらいのは、みんなそれぞれそうだった。それぞれ、なんだかんだ人に言えない重たいものを背負ってた」
「俺も、大人としてちゃんと話はしてたんだ。やっぱり、それぞれ色んな事情があって、何も考え無しにそういう風に動いているわけじゃないんだって、分かってた」
「それは私だって分かってるよ。でも私たち子供には、子供に見た景色しか分からないし、大人は大人で、子供には言えないことがある。そんなもんだよ」
「でも俺は、分かっててほしいんだ。葛城コーチは、お前に強く当たってたよな。でも、あの人はすごく立派な人なんだ」
「立派だったのは知ってる。でもあの人は、あまり頭がよくなかった。それに、直情的だった」
「でもあの人は、すごく頑張ってた。人には言えないような事情を抱えて、その中で一生懸命生きていた。俺はあの時すごく反省した。人ってのは、それぞれ本当に真剣に生きているんだって、そう思った」
「だとしてもだよ。私はあの人みたいに、不当に子供に怒鳴り散らかしたり、手をあげたり、そういう事をする人を肯定できない。どんな事情があっても、私はそれをよいことだとは思わない」
「何がよいことかなんて、人間には分からないじゃないか。そうするしかなかったんだ。その人の立場からすれば、そうするしかなかったんだ。俺は知ってるからそう言えるけれど……」
「私はそんなこと知らないし、知りたくもない。その人が、何か重たい事情を抱えているのは知ってた。それが何なのかは、追求しないのが礼儀だって、分かってた。でもだからと言って、私たちが受けた仕打ちを肯定することはできない」
「でも、人間の行動は、どんなことでも、きっと意味のあることなんだ」
「そうだとしても、だよ。私はそれを反面教師にするよ」
「反面教師にするって言ったって、俺たちは何がよくて何が悪いかなんて、わからないじゃないか。一見悪いようにみえる行いが、結果としてよい方向に向かうかもしれない」
「だから、私は趣味に従うんだよ。私は自分の感情に従って子供を叩いたり怒鳴りつけたりすることを、下品なことだと思う。頭の悪いことだと思う。私は、あの人にどんな事情があったとしても、あの人のとった行動が、私や美紀ちゃんを苦しめたのは事実だと思ってる」
「それでもあの人は一生懸命生きていた。一生懸命に生きている人を否定することはできない」
「それはそうだよ。それがあの人の能力としての、全力だったのは私にも分かる。あの人も、必死にうまくやろうと頑張ってた。でもやっぱり、私はあの人を反面教師にするしかない」
「それはお前があの人の事情をよく知らないからなんだ」
「そうだろうね。だとしても、だよ」
「それに、仕方ないじゃないか。環境っていうものは、変えることのできないことだ」
「それは、お父さんに取ったらそうかもね。お父さんからしたら、全部終わったことかもしれない。でも私や兄さんは、これからその環境を変えていく、作り出していく世代なんだ。だから、前の世代の間違いや過ちは、しっかり間違いや過ちとして認識しなくちゃいけない。『分からない』なんて言って、判断を放棄しちゃいけない。私たちは考え続けるしかないんだ」
「……」

 私は、少し後悔した。自分がいつも隠していた本心を、酔いのあまりはっきりと口にしてしまったから。母はスマホをいじっている。兄は、私に気遣って手を握っていてくれている。父は、ぼんやりとした目でもう一杯酒を飲んだ。
「大変だったと思うよ」
「大変だったよ。でもお父さんも大変だっただろうし、葛城さんも大変だったと思う」
「大変だったよ。でも、俺たちは俺たちなりに全力を尽くしたんだ」
「それは認める。でも私は、そこで止まるつもりはないよ。自分たちなりに、もっとうまくやっていこうと思ってる。どうなるかは分からないけれど、でも私は、もっと人に親切でありたい。もっと、人の気持ちに寄り添っていたい」
「文香ならできるよ」


 家に帰ってから、父は風呂場で吐いた。母は父に「トイレでやれ」と何度も怒鳴った。兄は父の背中をさすり、私は父の吐瀉物を掃除した。
 私も兄も父以上に飲んでいたが、調子は悪くならなかった。元々父は少し肝臓を悪くしていたし、しばらくお酒を飲んでいなかった。元々酒に強いとはいえ、久々なのに結構な量を飲んだから、こうなってしまうのも当然だと思った。
「もう若くないんだから、ね。兄さん、私たちも年をとったら、若い時と同じように飲むのは厳しいんだって、気を付けないとね」
「そうだなぁ。お父さん、平気?」
「平気だよ、おええ」
 吐きながらそういう父に、兄は呆れながら語る。
「平気なのはいいんだけど、反省しなよ? 文香の言うように、もう若くないんだから」
「あぁ……」


 人生は、それぞれ複雑なのだなぁと思う。私は、葛城さんの娘である美紀が実は別の男の娘なのではないかとか、たくさんの借金を抱えていたのではないかとか、何か体に重たい持病を抱えていたのではないかとか、そういうことを想像してみた。
 いやきっと、私には想像もつかないような、大変なものを背負っていたのだろう。だとしても、あの態度は、私とは相いれない。ああいうタイプの人とは、知り合いになれても、友達にはなれない。
「あの人は言っていたよ。文香は、何か大きなものを持っている。でもそれは、自分のような凡人には理解できないし、持っているということしか分からないんだって」
 それはきっと、真実なのだろう。同時にそれは、私たちの間には絶対に分かり合えない壁があるという証左でもある。私はあの人のようには生きられないし、あの人は私のような人間のことをどうあがいても理解できない。
 それでいいのだ。人間には、それぞれ役割というものがある。私には私の役割があって、あの人にはあの人の役割があった。それだけのことなのだ。

 私はあの人のことを恨んじゃないない。父のことも、もちろんそうだ。

 人生は難しい。

 そういうことを考えることができたのは、お酒のおかげだ。不思議なもので、本音で語り合うというのは、意図とは関係なく、人の心を直接揺さぶるものなのだろう。
 自分の経験というものは、自分の胸に深く沈んでいく。それ自体が深く解釈され、深い自分として保存される。私は私の経験を大切にしたい。

「文香は、文章や人の言ったことから、普通の人では感じられないようなことを感じ取る能力がある」
 父はそう言った。
「俺もそう思う。俺は文香が言ったことのほとんどをちゃんと理解できないけど、文香がちゃんと考えてものを言っているというのは分かるし、それが正しいんだろうなっていうことも分かる」
 兄もそう同意した。
 それに嘘がないことは分かる。

 他者の意見は、私を安心させるのと同時に、不安にさせる。
 自分が思い上がった馬鹿じゃないということが分かる安心と、自分はやはり、他の人とはどこか根本的な部分が違う人間なのだという不安だ。

 お酒は、おいしかった。普段言えないようなことを、率直に語れたのもよかった。同時に、自分が酒に逃げやすい人間であるということも分かった。気を付けなくてはいけない、と思った。
 今日のような特別な日以外は、飲まないようにしよう、と決めた。

 人生は難しい。でもそうあるべきだと定めたのは、私だ。
 まだ酒の酔いが抜けてない頭で、そんなことを書いている。

 私はもっと優れた私でありたい。

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