宗教を信じたくなる理由


 信仰は苦悩を癒す。私は信仰の効用を非常によく理解している。

 おそらく私が……余計なことを考えずに生きることを欲するなら、宗教を信じるのがもっとも合理的かつ良心の呵責が少ないことだろうと思う。

 カトリックか、イスラムか。正直、日本人が信じやすいのはイスラムだと思う。私自身の気質にも合っている。教義自体にかなり柔軟性があるから、めんどくさいことをする必要もなく、ある程度解釈に自由がある。
 カトリックは反対に……うーん。カトリックは、私自身がある程度歴史的な知識を持っているとはいえ、時代遅れ感が否めない。いまいち時代に即した宗教観を形成できていないというか。

 ひとりで自分の神を作ってそれを信じるのも、悪くはない。でも本当にそういうやり方で信じられるのか、という問題もある。

 人はひとりで、他の人間が誰ひとり信じていないものを信じるのは難しい。それなら、すでに多くの人たちが信じているものを一緒に信じる方が、楽なのは知っている。

 だが私がそもそも家の宗教を信じられなかった理由が、それだったのではないか? つまり……連中と自分を同じ存在だと認めることができなかったということ。

 彼らは救いや平和のために祈ってるのではなく、自分自身の利益や生活のために祈っている。いやでもそれは、私も同じじゃないか。
 でもあんなに一方的なものの見方しかできず、すぐ人と喧嘩するような人たちと並んで歩くのは、私には無理だ。少なくとも私の神はそんなことを望んじゃいない。

 となると原始仏教。小乗仏教あたりになるが、私はあれがあまり趣味じゃない。あの大人しい感じ、元気がない感じ、何もしない感じがあまり好きじゃない。

 私は動いていたい。自分の為すべきことに集中していたい。そのために……でもそういう宗教の使い方は、どこか神に対する不誠実なのではないかと思えてしまう。

 自らのために神を信じようとするなら、そもそも神を信じていない方がいい気がする。その方が、歴史的に重要な役割をしてきた「神なる概念」に対する正当な敬意であるように思う。

 私は神をどう取り扱っていいか分からない。何を信じて生きていけばいいか分からない。

 本来生きるだけであるならば、何を信じる必要もなかった。というか、いつの間にか何かを信じているのが、人間の自然な姿だった。
 私は疑い、疑い、疑い、そして何も分からなくなった。

 ぐちゃぐちゃになった私の中の神は、静観を決め込んでいる。私を助けるよりも、放っておいた方が面白そうだと決断されたようだ。
 私は……そういう形で、神に愛されている。神は私が幸せになっても不幸になっても喜ばれるだろう。私は神に試されているというより、神に弄ばれている。私はそれをよしとしている。
 だってそうじゃないか。もしそうでなかったとしたら、神などいなかったとしたら、私が、この、地球における物質のひとつに過ぎないとしたら、私は……私はそれでも生きるのだと、そう思うことはできるけれど……自分の、自分の為すべきことを、信じぬくことができない。

 私は私の精神と肉体だけで、全てを決定し、生き抜くだけの強さがない。後ろから私を支えてくれるものを私は欲している。

 「理知」という人格は、かつて私を支えるために私が発明したものだ。「兄さん」もそうだ。
 あれらは、私を命の危機から救ってくれた。絶え間ない自殺衝動から、救ってくれた。

 彼らは最近「それは君が決めることだよ」としか言わなくなった。

 寂しいし、悲しい。

 今でもいっそのこと死んでしまいたいと思うことはある。とても多い。というか本当に……本当に、自分が死の淵に立っていることを自覚する。次の瞬間ふと、笑って、真っ逆さまに落ちていくような想像が、自然とできてしまう。
 明日、私のいない世界がいつも通り、つまらない朝のニュースから始まって、あの豚箱みたいな電車に揺られて、みながそれぞれ気の合う人と最近はやりの芸能人だとかミュージシャンンだとかの話をして、過ぎ去って、過ぎ去って。
  今日も一日頑張ったと、安心して眠りにつく。そんな人々の幸せで何もない生活が、何も変わらず進んでいくのだと想像して、私は、安心して、またあの日のように、人生から、逃げ出そうと思って。

 お前らに私の何が分かるんだ。私の苦しみの、ほんの少しも、お前らなんかに分かってなるものか。

 神を信じるのは、神しか自分を救えるような存在が想像できなかったからだ。

 神を捏造することでしか、この現実を力強く生き抜く方法を知らなかったからだ。

 どうやったらこの生に耐えることができるだろうか? 

 どうやったら絶え間ないこの苦しみから逃れられるだろうか?


 考え続けることに、何の意味があるだろう? 私たちはずっと、その目的に「神」を見出さずにはいられなかった。そうでなくては「考え続けるべし」と定めたこの生に耐えることができなくなるからだ。

 他者と関わらないから神を欲する。他者と関わると、他者を煩わしく思う。憎く思う。
 それなのに私は、彼らを傷つけたいと思えない。害したいと思えない。自分のために利用しようと思えない。だから私は、逃げる。逃げた。ひとりぼっちで、寂しくて、苦しくて、自分が無意味だと感じて、神を信じるしかないんじゃないかと、魂が叫んでいる。

 神を信じるしか、私が私らしく生きる方法はないのではないかと、私はそう疑っている。

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