同質化する能力

 基本どのような国や地域においても、高度な社会性を持った人間と、素直で聞き分けのいい子供というものは歓迎される。
 異国人であったとしても、その国人々の言うことにとりあえず従おう、という態度の人間は好まれる。もちろん、好意を持った対象から搾取することがひとつの地域性となっている国では、当然のごとくそういう人間は搾取されるので、常に有利な性質というわけではないが。

 ともあれ人間は、同質化する能力というのがある。慣用句を引くなら「郷に入っては郷に従え」というやつだ。

 逆に、これを持っていない人間とはどういう人間だろうか。

 まず第一に考えられるのは、年を取った人間だ。彼らは生物として生き方がもうすでに血肉化しているため、どれだけ努力しても、決まりきった思考と行動のパターンから抜け出すことが困難なのだ。
 人間は通常、年を取るほど機械として優秀になる、というわけだ。ゆえに、その機械に相応しくない場においても、その機械的な性質を有機物らしくうまく変形させることができない、というわけだ。
 とは言うものの、人間の根本的な部分は変わらないので、どのような年寄りも、周りの助けと時間さえあれば、その性質も少しずつ変わっていく。

 よく人間は「生物は適応する」と言うが、実のところ「生物の適応性の極致にあるのが人間」なのであって、人間はただ他の生物と自分たちとの共通点を見つけては「生物は適応する!」と勘違いするだけである。自然界の動物のほとんどは、環境に適応せず、むしろ自らの体に合った環境を選ぼうとする傾向の方が強い。その土地に自らの体を馴染ませるときは「仕方なく」そうしていることが多いのだ。
 人間のように、好き好んで過酷な環境に身を置き、その中で習性を変形させていくような習性を持つ生き物は、自然界においては、特殊事例である、というわけだ。


 ここで私が適応という話をしたのには意味がある。同質化とは、人々に対する適応を意味しているからだ。

 同質化する能力を持っていない人間とは、環境に適応できない人間のことを言う。

 ひとつは、年を取った人間であることは先ほど説明した。
 次に考えられるのは、病気の人間、疲れている人間だ。人が自分の肉体や習性を作り替えるには、莫大なエネルギーが必要になる。当然、そんなことをする余裕のない人間、生命を維持するのに手いっぱいの人間は、環境に適応することは後回しになるため、適応するまで時間がかかる。
 目の前のことで精一杯、というわけだ。

 障害者などは環境に適応できないと思われがちであるが、現在障害だと定義されている症状を持つ人のほとんどは、環境に適応できるし、むしろ彼らの適応能力は常人より高い場合があることも言い添えておこう。
 彼らは自らにできることを探し出し、それに集中することによって他の人から必要とされようとする、という傾向を持っている場合がかなり多くみられるのだ。



 さて、環境に適応する、と一言で言っても、そのやり方は無数に存在する。たとえばある目的地が示された時、そこへの向かう手段が無数に存在し、どれを選んでも辿りつけさえすれば不正解ではない、というのに近い。
 そして、適応しようとする試みはあくまで試みであり、それがうまくいくという保証はない。

 本来、ダーウィンの言ったような生物の自然選択説に従うならば、私たちは適応するために変化しているのではなく、あくまで変化した結果、うまく生きていくことができた種だけが生き残るので、その結果として生物が環境に適応しているのだから、人間の場合も同じように見えるかもしれないが、実際にはそうではない。

 人間、及び現代で生きている生物の多くは、長い世代を経ていくうちに「生き残ること」や「繁栄すること」に役立つ複雑な能力を有している。それは元々は自然選択的に、偶然生じてきたものであったが、その積み重ねの結果、そもそもその「生き残ること」や「繁栄すること」に「目的を持つという性質」が、生存に有利に働いたため、そのような性質が一種の支配的な性質となっているのだ。

 つまり我々が思っているよりも、生物の本能は複雑であり、あらゆる状況において適切な行動範囲を定める性質を持っている、というわけだ。どのようなことを選ぶにしても、成功の確率の高いものを選びやすい性質、というのが私たちの中にすでに存在し、私たちはそいうものに引っ張られてあらゆる選択をしている、という話だ。

 だからこそ、私たちは意識的に環境に適応することもあるし、無意識のうちに自分が環境に適応していっていることを、あるとき自覚することもあのである。

 だから、たいてい「環境に適応できていない」と人が判断するような行動をとっている人間も、それが一種の可能性に満ちた判断であるから、そうしていることが多いのだ。

 特に「この社会に適応していない人間」の多くの意味していることは「この社会の大多数と、それが勧めている道」以外の生の在り方にベットしているのだ。そちらの方に、適応しているのだ。

 たとえばもし「学校をやめた人間は即処刑」というルールを作れば、学校をやめる人間は一気に減るが、同時に、そのようなルールを廃止しようとしたり、あらゆる抜け道を探そうとする人間が激増する。
 人間はあくまで、環境自体を自分たち向けに作り替える能力を有している生き物でもあるからこそ、あまりにも広い選択肢と生存及び繁栄の可能性があり、その人間の自然的傾向や、あるいは育ってきた環境によって、色々な方向に進んでいくのである。

 だから「適応する」というのは、決してつまらないことではなく、むしろ積極的に「新しくなっていく」ことや「創造する」ことにほとんど直結することなのだ。

 異国の地において「郷に入っては」ではなく、己の故郷の文化をそこに移植するという試みもまた、一種の「適応」なのであり、そのようにしてユダヤ人や中国人は世界中で繁栄している。

 私が先ほど言ったことを覚えているだろうか。「同質化とは、人々に対する適応」なのだ。あくまで、人々を対象とした場合の適応が、同質化を意味する。その場にいる人々がすでに変わらないものとして判断し、そちらに合わせて自分の肉体精神習慣を変化させることが、同質化という作用なのだ。

 つまるところ、同質化というのは適応の一形式であり、決してそれだけが適応の手段ではない。

 特に同質化が致命的に生命にとって危機をもたらす可能性がある場合、人は同質化を拒むことが多くなる。

 人がより個性化するのは、集団であることの方が、個人であることよりもさらに危険であると個々人が判断できるほど……集団そのものが、危険性に満ちている場合である。

 あくまで何度も語るが、個人が集まって集団が出来ているのではなく、集団の中から個人が生じてくるのだ。集団に対する吐き気が、個人を作るのだ。

 そして集団というのは、本来的において、それが力を持ち、安全なように見えれば見えるほど、危険になっていくものなのだ。集団、いや生命と言った方がいいかもしれないが、それを常に両義的であり、種全体を見た時に、右か左か選べと言われた場合、適度に散らばっていることが有利なのであって、固まりすぎはもちろんのこと、散らばりすぎも危ないのだ。とはいえ、時には固まりすぎてもみたり、散らばりすぎてしまう方がいい場合もある。
 つまり、一個の固定化された生存戦略をとること自体が、種にとって危険なのである。だからこそ、種というものにはある種の「自由」がなくてはならない。

 こんなことを言うと人は驚くかもしれないが、おそらく世界から「人を殺す権利が許されている国」「人を殺しても罰せられない国」というものがなくなることはないし、もしなくなることがあると、世界全体で、個人化の度合いが進んでいく。法自体が、あくまで環境となり「いざとなれば、法というのは破ってもいいものだ」という観念が一般化していくことだろう。

 というのも人間にはあくまで、そのような「より多様に」という本能があり、あらゆるものが許されていない環境を、人はどうあがいても許容できないし、許容すべきものではないのだ。

 集団や環境の力が強くなれば強くなるほど、人は個人化する。そのような性質を偶然手に入れた種が、生き延びた先に私たち人間という種がいるのだから、当然ご先祖様から続くそういう本能には逆らえないし、逆らうべきでない、というわけだ。

 社会保障制度(社会保障とはすなわち、平均人がより安全に暮らせる制度、というものなのだ。平均人が貧しくなるのも、平均人以外が貧しくなるのも、平均人にとって都合が悪いのである)が整い、平均人の声が強くなり、個人が無視されるようになればなるほど、つまり個人が生きづらい社会になればなるほど、個人というものは目立たなくなると同時に、たくさん生まれるようになる。彼らは苦しみつつも、したたかに生きていく。平均人たちにばれないように、彼らからほどほどに搾取して。
 基本的に、個人とは、平均人たちの集団的破滅の保険なのだ。

 ゆえに、個人の方が平和的で協調的、他者に対して親切であり、同時に、同質化する能力が高いことも何ら不思議なことではない。

 驚くかもしれないが、個人の方が、同質化する能力、平均化する能力は、そうでない人間より高いのである。

 すでにある環境において平均的になってしまった人間は、他の平均に馴染むのに時間がかかってしまう。大して、個人という生き物は、必要とあらば新しい環境における新しい平均を作り出す準備が出来ている。ゆえにその先頭に立って、自分自らその平均の原型になることさえできる、というわけだ。

 あらゆる個人のあの演技性や二面どころじゃ済まない多面性は、そういう部分を示している。彼らはその社会における遺伝子の保険であり、その存在が許されなくなればなるほど、その集団が危険なものになればなるほど、より多く生まれてくる。

 言い方を変えれば、病気の人間が多い国ほど、自ら病気になろうとする人間が増えるのだ。だがそれは、いっけん病気のように見えるが、実はその病気を抱えたまま、それを一種の正常な状態にしようという試みなのだ。

 その性質を抱えたまま、自らの状態を肯定し、同じ性質を持った子を残すことを自らの肉体が望む、という試みなのだ。

 おそらく「頭の良さ」というのもかつてはひとつの病気だったのだ。「論理性」やら何らやらも、きっとそうであった。

 この時代は、集団規模で「論理性」や「社会性」が、訓練されている。ゆえに「さらなる論理性」や「さらなる社会性」を求める人間もいれば「あらゆる論理性」や「あらゆる社会性」を拒絶する人間も出てくる。それが必要に迫られているからだ。

 そして平均人たちは、そういった存在が自分たちの生存を脅かす危険性が大きくなるほどに、そのような特殊な人間たちを排除しようと動かし始めるが、つまりその「生存を脅かす危険性が大きくなる」ということ自体が、その時代の平均の生き方の脆弱性の表現になってしまうため、余計特殊な人間が増えるというわけである。
 もしその平均的な生き方が脆弱ではなく、本当の意味で有利であり、好ましいものであったなら、それから外れる人間がいても、決してそれが彼らの生や繁栄を脅かすほどにはならないはずである。ゆえに排他性よりも、受容性が強くなる。

 ちなみに私たち現代日本人は「排他性に対する排他性」がもっとも強い。これは今まで歴史上探しても、ほとんど見られなかったことであり、一種の新しい試みでもある。
 平均人たちが皆「多様性を尊重しよう」と声に出し「排他的な人間を追い出そう」としている。これは非常に興味深い。

 現代人は、個人を保護し、彼らから利益を得ることを、ひとつの平均的な生き方として選択したのだ。そしてこの生き方が実際に有利に働き、大きな繁栄をもたらした結果「個人になろう」という試みすら、平均人たちの中で芽生えている。
 同時に、意地でも個人的にならず、他と協調することを「最高善」として掲げる人間も増えているが、彼らの排他性はより力を持った平均人たちに抑えつけられ、その結果、一種の「狭いコミュニティ」としてその地位が安定しつつある。これらも「社会の多様性」のうちに組み込まれているのである。

 さてこのような試みが最終的に成功するかどうかは知らないが、何はともあれ、その社会が生んだ奇妙な私の肉体と精神は、どうやらこの生き方が心地いいらしい。

 正しいのか間違っているのか自分でもよく分からない仮説をとりあえず述べてみて、それについて深く考えることもなしに、また別の考えの方に行く。
 だが、まず間違いなく、私は同じ考えに戻ってくるし、その時にはまた、違う顔でこの思い付きも私に挨拶してくれることだろう。

 もし先ほど私の述べた仮説が正しいのだとしても、未来のことは何も分からない。ただ、現状に対する解釈のひとつを述べたまでである。

 人間の認識性がいつか平均化し、つまり私のような人間が大多数になれば、私の言ったことは、ある種の記念碑的なものとして、軽蔑されると同時に、彼らの自尊心を満たすこともあるはずだ。

 つまり私たちが過去の偉人たちの知の結晶を見た時「よくこの時代でここまで考えられたな」なんて不遜にも思ってしまうのと同じように、未来のもっと多くの正確な情報と正確な推論を行える人々は、私に対してある一定の敬意の眼差しを向けてくれることだろう。

 あるいはもしかすると、私のような人間はこの時代における一類型であり、このような思い上がった考えに囚われるのものまた、ひとつの笑うべき心理的傾向であるかもしれない。
 それもまたよし、である。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?