生きづらさ保護法案【ショートショート】

 朝のニュースをつけると、生きづらさ保護法案が可決されたことが報じられていた。


 僕が生きていた前の時代では考えられなかったことだ。(僕は2028年に病気の関係で冷凍睡眠に入り、最近目が覚めた。今年は2088年。浦島太郎のように感じるかと思いきや、その間に若返りの技術が進歩したため、知り合いのほとんどはまだ若々しいまま生きている。もっとも、その容姿が変わっていない人はひとりもいなかったが)

 反対する人は、あまり多くなかった。というのもこれは、前の時代のお題目である「すべての人にとって生きやすい社会を目指す」の反動であるからだ。

 皆が生きやすく生きられるようになった結果、社会全体がどうしようもなくつまらなくなってしまっていたのだ。
 そんな中ある社会学者が「社会の面白さは、生きやすさと生きづらさのバランスによって決まる」という論を提唱し、ある小規模国家が実験的に「適度な生きづらさを生じさせる」ということをしてみたところ、その国では生産性も創造性も向上し、自殺率も低下した、という結果が得られた。当然、世界中で「生きづらさを大切にしよう」という動きが生じることとなった。
 この国は保守的な部分があって、他の先進的な国家らと同じように生きづらさを実際に作り出して人々に押し付けることはできなかったので、すでにある生きづらさを保護することによって、この国の芸術や文化を守っていこう、というところで皆の意見が一致したのだ。

 奇妙なことに思えるけれど、この時代の人々にとっては、それが当たり前であるようだ。適度な生きづらさは、人生を楽しいものにする。それに異論を唱える人は、馬鹿な善悪二元論者として一笑に付される。

 自動歯磨き機及び自動洗顔機には高い使用税が課せらえるようになった。他にもいろいろな「生きやすさ税」が導入され、皆がほどほどに生きづらくなるように調整されていった。
 それで生活が困るわけではないし、そのような生きづらさの結果、人と人とが協力する機会が増え、孤独なまま生きる人が減ったのも事実。皆も「便利すぎるのも、面白くないな」と思っていた時期だったから、この社会改革は概ね肯定的に捉えられていた。

 でも、どこか息苦しい。皆もそれを薄々感じていて、でも「息苦しさ、それこそが生活を彩る生きづらさの本質である」と反論されたら、黙るしかないので、困っている。


 最近「生きづらさブーム」の立役者である社会学者が、また別の論を提唱し始め、それが広まりつつある。それは「多様な生きづらさが生じている社会ほど、豊かな文化を育むことができる」というもので、この国の均質的な「生きづらさ」にうんざりしている人々に強く支持されつつある。

 なんだか僕自身は、何もかもが馬鹿馬鹿しくてどうでもよくなりつつある。
 生きづらさというのは、そのように人為的に作られるものではないような気もするのだが……しかし一個人にとって、社会の動きというのは、自分で作ったものではなくて、勝手に作られていくものだから、それに揺さぶられている今の僕は、ある意味では「自然な生きづらさ」を感じているのかもしれない。

 自然な生きづらさ、か。僕ら人類はどこに向かっていくのだろう?

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