救い【ショートショート】

 現実はあまりに救いがない、と思った。どうしようもないことばかりだ、と思った。
 偉大な先人たちは、その中で、少しでも善くしようと思って、たくさんのことを成し遂げた。人間は愚かで、醜いけれど、それでも……

 多くのことを我慢してきた。疑問も、敵意も、全部見逃してきた。それは抱いて当然のものだったけれど、抱いたからといって、何かができるわけではない。
 子供のできることには限りがあるが、大人になったからと言って、その全てができるようになるわけではない。自分の欲望を満たすだけなら、そう難しいことではないけれど、世界を変える、つまり人間を変えるための行動は、そのどれも……

 俺はかなり早い段階で諦めた。だから、せめて、虚構の世界でだけは、救われて欲しかった。現実は美しくないから、せめて嘘の中でくらいは、人間が、俺の愛する……人間の「像」が、美しくあってほしい、と思ったのだ。
 その理想は、理念は、今でも笑うことのできないものだ。ひねくれた人間は、中学生時代、俺が本気で目指していたことを聞いて「拗らせすぎ」と笑うかもしれないが、俺は、そうは思わない。あれから成長し、捨てたけれど、それでも、その願いは、その想いは、真剣そのものであったし、そう考えずにいられなかったのだと今でもそう思っている。
 現実が醜すぎたから、どうしようもなく、変えられないから。それでも、変えたいと思うから。それでも、救われて欲しいと思うから。だからせめて、嘘の中で、美しく描きたいと心の底から願った。

 それを捨てた理由は、単純に、その才能がなかったからだ。俺の書く物語は、確かに「いい話」ではあった。しかし書いても書いても、他でもない俺自身にとって、その理想に対して、到底届きそうもない代物であった。いつか届くから、と思って書き続けたけれど、あることがきっかけで、俺はそれをやめた。
 身近に、俺よりも美しい話を書ける人が現われたのだ。その人に、こう言われたからだ。
「君は、美しいものが何かよく分かっている。でも、よく分かっているということが、それを産み出せるというわけではないんだ。それは別の才能なんだよ。私は自分が、何を書いているのかよく分かっていないし、それを読んでも、よく分からないんだ。君の方が、私の物語のことをよく理解している。だから、私は私の物語を理解しようとするのをやめた。すると、より美しい話になった。ねぇ。私は、君のために物語を書いているんだよ」
 それはもう、ほとんど告白だった。

 彼女のことを、女性として見たことは一度もなかった。出会ったときから、俺は彼女が苦手だった。苦手なのに、惹かれてしまうことが、不愉快で、不愉快で、仕方がなかった。彼女が何を考えているのか、いつもいつでも気になった。どれだけ考えても分からなくて、思い切ってそれを訪ねても、彼女はふわっとした答えばかりで、それなのに、誤魔化している感じがしなくて……それなのに、その文章は、はっきりと輪郭を描くようなもので、決して掴みどころがないわけではなくて、むしろ、普通以上に具体的にものごとを描くその様は……俺と正反対であるからこそ、俺は、彼女の書く物語に美しさを感じれば感じるほど、俺自身の醜さを自覚して、自分自身が否定されたような気持ちになってしまうのだ。
 そんな彼女に、純粋な好意を向けられた時、俺は……あまりにあっさりと、理想を捨てた。無謀な夢を諦めた。俺には、現実より美しい嘘なんて、描くことはできない。俺が書いてきたものは全て、俺が軽蔑するこの現実から盗んできたものであり、だからこそ、俺にとって、価値のあるものではなかった。何かを書いても、そこに描き出される景色は、すでに俺が知っている景色で、救いなんて、見せかけばかりだったのだ。
「君は、確かに君自身の言うように、凡庸かもしれない。でも私は、その凡庸さは、決して無価値だとは思わない。君は優しい人だよ。そして、よく分かっている人間だ。君といると、私は安心するんだよ」
「たとえ俺が、君を前にすると、自分が否定されたかのような気持ちになるとしても、か」
「それでも、だよ。だって君は、そういう気持ちになっても、決して私を傷つけようなんて、思いつきもしないじゃないか。私はね、君を救いたいんだ。君を決定的に救うような物語を書きたい。それが結果として、私自身を救うことになると、私は知っているから」
「君の言っていることは分からない」
「私たちは繋がっているんだよ。だから、君が傷つけば、私も傷つくし、君が救われたなら、私も救われるんだ」
 分からないけれど、君の言葉は美しいんだ。

 その言葉を飲みこんで、胸にしまい込んで、俺は彼女の代わりにこの醜い現実を精一杯生きることにしたのだ。
 きっとそれが、彼女の救いになると同時に、俺自身にとっても救いになると、そう思ったから。

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