敗者として

 私の人生は負けてばかりだった。
 好きになった人に告白するも、何事もなく断られ、高校受験も滑り止めは受かったが、第一志望校は当然のように落っこちた。
 自分では、そんなに高いハードルを設けていたつもりではなかった。頑張れば手の届く範囲だと思ったものに狙いをつけているにも関わらず、届かない。あと一歩が届いていないのか、そもそも私は私の実力を常に過大評価しているのか。

 不思議と劣等感はあまりなかった。入った滑り止めの私立高校では、同じような人もいっぱいいたし、それとは別にその高校に何とかぎりぎり入れたような子もいたから、私は自分が特別無能というわけではないと理解していた。

 人生、うまくいかないことはある。それは誰もがそうだ。異論はない。でも、うまくいったと思えたことがあるかどうかは、それぞれ違う。私の場合は、一度もなかった。

 幼稚園のころピアノの発表会で普段やらないようなミスをいっぱいやって、帰り道親に「才能ないからやめたい」とこぼすと、自分の本心をあまりこぼさない子供だったせいか、知らぬ間に勝手に話が進み、もう二度と習いに行かなくていいということになっていた。私はただ弱音をこぼしただけだったのに、勝手に挫折ということにされていた。

 私のこれまでの人生はそんなことの連続だった。

 別に誰かが私に対して面と向かって「お前は敗者だ」と言ったわけじゃない。でも私は自分のことを敗者だとしか思えない。何をやってもうまくいかない。努力は何も実を結ばない。全てが中途半端で、退屈。
 私はそんな自分を受け入れていたし、変えようとも思っていなかった。


 高校に入ってから、そんな私とは対照的なひとりの友人ができた。有紗、という名前のその子は、自分と自分の仲間のことを常に「勝ち組」だと思っている子だった。
 誰も彼女に対して「なぜ勝ち組なの?」とは尋ねない。尋ねられる雰囲気じゃない。有無を言わせず、有紗は恵まれた容姿と大きな声でクラスの中心物になっていたし、考える前にポジティブな言葉を口に出すから、誰も彼女の言うことを否定しなかった。
 彼女の前では「ごめん」と謝ることさえできないほどだった。「ごm」ぐらいのタイミングで、彼女は必ず「大丈夫! 誰も気にしてないよ!」と十倍くらいの声量でかき消してしまうのだ。
 彼女がいると、どのような失敗も、恥も、なかったことになってしまう。私は自分の意思で彼女のそばにいたわけじゃないけれど、なぜか彼女は私のことが好きみたいで、二人で過ごすことが多くなっていた。

 前にふと「なんで有紗は私に構うの?」と聞いたら、彼女は自信満々に胸を張ってこう答えた。
「美弥といると、落ち着くから!」
 それ以上の言葉は必要なかった。私が何であるか、ということは彼女にとってどうでもよかったし、私にとってもどうでもよかった。

 私たちは一度も喧嘩することなく、高校を卒業するまで親友のままだった。卒業したあとも、連絡を取り合うつもりだった。
 私は兄が通っているのと同じ私大に受験し(学力的には多少余裕があったから)無事合格していた。
 有紗の方は、北海道の大学に行って畜産の勉強をすると決めているらしかった。なぜそうしたのかを訪ねると「牛が私を呼んでいるから!」という意味不明な回答をされた。多分本当にただ、牛の世話をするのが楽しそうだと思ったのだろう。


 大学に入ると、私はまたすぐに自分が敗者であることを思い出した。
 周りと比べてどうか、という問題ではない。ただいつも「こうでありたい」と思う自分に一歩届かなくて、目標を立てても、その目標のための細かい日常的な計画を立てても、その通りに自分が動けなかったのだ。
 
 有紗と三年間一緒にいたおかげで、前向きな性格になったからか「自分は敗者だ」という感覚が戻りそうになっても、人は変わるから、きっと今ならなんとかやれるはずだと、そう思って色んな事に取り組んでみたのに、全部だめだった。大学受験では負けなかったんだから、私はきっとやればできるはずだと自分に思い込ませて、新しいことに何度も挑戦したが、全部ダメだった。
 周りの人間が気の毒に思うほどに、私には何もなかった。私に「頑張れ」と言ってくれる人もいなかったし、私自身、自分が何かにずっと頑張り続けている姿は想像できなかった。

 励ましてくれる人はいる。彼氏だって、二回だけだけど、できたことがある。どちらも向こうから好きだって言ってくれた。
 私は別に、そんな悲観的になる必要はない。ほどほどに、凡人としてうまくやっていけばいい。

 そう思っているのにもかかわらず、私の中の「敗者である」という感覚は抜けない。きっと何をやってもうまくいかない。そういう気持ちが、なくなってくれない。
 私はきっと「凡人としてうまくやっていこう」という目標すら、満足に達成することもできない。
 いつか社会の落伍者として、誰が見ても敗者と思われるような立場と見た目になって、蔑まれ続けるようになる未来が、ありありと目に浮かぶ。それを想像しても、あまり不快に思わないことこそが、自分がそういう人間であることの証左なのではないかと思えてならない。

 敗者。敗者。敗者。

 音楽もダメだった。絵もダメだった。文章もダメだった。勉強ももちろんダメだったし、学問もダメだった。頭の出来だってダメだ。人との出会いには恵まれてきたけれど、それをうまく生かすことはできる気はしない。それは、ただ運がよかっただけだ。

 敗者。

 私は生まれながらの勝者を羨んだりはしない。有紗には幸せになってほしいし、頭のいい人や運動ができる人は、ぜひとも想像もつかないような高いところで活躍していてほしい。
 私は他者を僻んだりはしてこなかった。自分と他者をほとんど比較してこなかった。私は、相対的な敗者なのではなくて、絶対的な敗者なのだ。

 そうだ。私は勝ち組を見上げて羨み、相対的な弱さに歯ぎしりするような、ありふれた敗者じゃない。負け組なんかじゃない。
 私には、プライドがある。純粋な敗者としての、プライドだ。

 そうか。そうなのか。私は、敗者として生きるべきだったのだ。
 凡人として生きることには、きっと失敗する。でも敗者として生きることなら、きっとうまくやれる。

 そうだ。この生き方は私が選んだのだ。私は敗者でいい。敗者であるべきなのだ。

 私は敗者として生きることを自ら選んだのだ。
 その考えが私の頭の中で突如として閃き、人生を支配した瞬間、私は生まれて初めて「勝利」という感覚を理解した。
 私の存在が、はじめて世界から祝福されているように感じた。

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