「普通」と「陳腐」に違いは

 この時代、あらゆるコンテンツの価値を「人気」で判断することが当たり前になっている。
 「大多数が好き」だと思ったものが、価値あるものとされている。

 普通、というものが何かを考えてみよう。歴史的に見て、芸術は基本的に「普通」や「平凡」を拒絶する。芸術家にとって、その二つは「醜悪」や「下劣」以上の侮辱であり、拒むべきものであったと思われる。

 だが現代的な表現において重要なのは「大多数の共感」である。「できる限り多くの人間が理解できるもの」がよいものとされている。

 私たちは「多くの人間が理解できるもの=常識であり、平凡」という風に考えがちであるが、本当にそうであろうか。
 芸術的な観点から「普通=陳腐、つまらないもの」と考えがちであるが、本当にそうであろうか。


 おそらく大多数は「普通なら何でも好き」というわけではなく、ある特定の「普通」しか好まない。その特徴を明らかにしてみよう。

・新しいこと
・ちょっとした個性が含まれていること
・自分たちに歩み寄っていること
・傲慢さを感じさせないこと
・常識を理解していること

 ぱっと思いつくだけでも、大多数が好む条件としてこれらがあげられる。
 通常「普通」というのは基本的に、新しくない。どこにでも見られるものであり、退屈なものである。だが新しい「普通」が出来上がっているとき、人々はその「普通性」に魅了される。「新常識」が大好きなのである。
 「奇妙」とされていたものが「普通、常識」になっていくのは、その奇妙なものが自分たちの趣向に決して反していないことを条件とする。

 つまり「普通が好き」というのは「自分たちの価値観を破壊せず、ほんの少しだけ変化させるものが好き」ということだと考えていいと私は思う。大衆の趣味はゆっくりと変化していき、その変化の中の主流が常に「普通」なのである。

 五十年前の「普通」はもはや私たちにとって「奇妙」であり、受け入れがたいものでもある。五十年前の大衆が共感していたものは、今の大衆には共感できないため「普通」ではなく、その陳腐さだけが残り、つまらなくなっているのである。


 芸術が常に「前衛的」な雰囲気を漂わせているのも、ここに起因していると思われる。つまり、それは常に一種の「普通さ」を内に含んでいるが、それに対して共感できる人が少数であるため、その少数の「受け入れ、理解できる人」にとっては「普通」となり、そうでない人には「ついていけない」という感覚を与えるからである。確かにそういう感覚を「前衛的」と表現するのは適しているように私には思える。

 時代錯誤的なものや、普遍的すぎるものは基本的に大衆に愛されない。普遍的すぎるものとは、あらゆる時代で常に何かしら当てはまる部分のあることである。数学や科学も一種の普遍性を持っているし、哲学や文学も普遍性を一部含んでいる。
 もっとも普遍的なものは、宗教である。たとえばユダヤの旧約聖書は、おそらく現時点でもっとも多く読まれた書物であろうし、おそらくそれは今後も変わらないであろう。


 普遍的なものは、変化しない。時間によって変化しないことこそが、普遍的なものの定義であるから、それが変化すればするほど、その普遍性は低下するわけだ。そのままの形で、この時代までつながっていると思われるもの、つまり、古くから存在しているものこそが、私たちにとって普遍的と思えるものなのである。

 言い方を変えれば極度の時代錯誤感、それが普遍的なものである。それはどのような地域、時代においても「普通」とされる感覚である。それは誰しも共感できる部分を含んでいるがゆえに、それに対する感覚が鈍くなっており、人々は好まないのである。刺激が弱すぎるのだ。

 たとえば、私たちは毎日水を飲む。水を飲んで楽しむというのは、普遍的なことだ。だがそれを歌に歌ったところで、私たちはその歌を理解するが、好きだと思うことが難しい。大衆的な人間ほど、そのような「どの時代の人間でも理解できること」を好むことはできないのだ。それを「好きだ」と思っても、広めようとは思わない。というのも、必然的にそれは広まっており、わざわざ言う必要がないからである。
 普遍的な感情や感覚、思いはわざわざ伝える必要がない。すでにそこにあることを知っており、自分たちが何をしても、何を表現しても、変わらないことを知っているからである。

 大衆と言えども、人は特別でありたがる。自分個人が特別であることができない場合、その時代を特別なものとして扱おうとする。だからこそ、流行が産まれるのである。流行は「新しいもの」を追いかけることによって生まれる。それは「それまで知られていなかった(=過去の時代の人々には理解できなかった)」ことを知り、広め、自分たちのものにすることでもある。
 そこには単純な好き嫌いではなく、力の感覚が宿っているように私には思える。優越の感覚が宿っているように私には思える。

 人は「見る」ということだけでも優越を感じる生き物である。
「三十年前じゃ、どんな金持ちも見ることのできなかったより細かい映像を、この時代に生きているというだけで見ることができる」
 確かにその感覚には、優越が含まれている。「自分たちは他と比べて豊かである」という喜びを含んでいる。

 人は自分の手の届く範囲で、新しいものを自分の所有物にし続けていたいのである。この時代は、科学の発展が絶え間ないおかげで、その万人に宿る所有欲は何とか満たされているように私には思える。
 逆に言えば、科学の発展が技術的な問題によって頭打ちになり、それ以上人間の生活が豊かになることができなくなったとき、つまりその時代にとって、過去に対して誇るべきものがなくなった場合、人はどのようにしてその欲を満たすのか、あるいはその欲はずっと満たされていなかった場合消え去ることはあるのか、そういうことは私にはさっぱりわからない。
(現代人の差別欲求は、過去の愚かな人たちや差別主義者たちを蔑むことによって満たされている。思想的に進歩することができなくなった時、つまり過去の価値観に対して優越することができなくなった時、またかつてと同じように身近な特定の特徴を持った人間を犠牲にすることでその差別欲求を満たそうとする可能性がある。私たちの差別欲求に、肯定的な未来はあるのだろうか?)

 *

 「普通」とは「もう知っている」という印であり、人が好む「普通」とは「新普通」なのである。

 人がわざわざ「共感した」というのは「それまで共感してこなかったものに対して」であり、分かり切っていることに対しては、共感の意を示さないし、示す必要がないのである。「もう知っている」「もう飽きた」からであり「そうね」で済んでしまうことだからである。それを人に伝えたり広めたとしても「うん知ってる」と言われてしまうのならば、そもそも何も言わずスルーした方がいい。大衆という生き物は愚かなものであるが「自分がどう思われるか」という点に関しては例外である。人はどんな低劣な人間でも、己の利害がかかわったとたんに聡くなる。
 愚かな人間が実際に賢くなることはほとんどないが、愚かな人間は自分が愚かであることを隠すすべにとても長けているし、自分の愚かさが露呈してしまった場合、それに対してきちんと反省し、同じ過ちは二度と犯さないのである。中身は変わってなくても、行動の制御は変わるのである。そこに愚者の徳がある。

 理解できる範囲で新しいこと。大衆が普遍的に好むものは、それである。

 だがそれは実のところ……私も含む、芸術家も含む、各個人もそうなのではないか?
 私たちはどれだけ大衆や流行から離れても「マイブーム」からは逃げられないのではないか?

 実のところ、大衆と私たち個人の間には、成長の速度の差しかなく、いつか……私にとっての「普通」は、大衆にとっての「普通」になるのではないか?

 いつか私のような考え方の人間が「大多数」となることもあり得るのではないか? もしそうなれば……そのような世界は……

 皆にはそれぞれ「もし全世界百億人のうち、各個人の能力は違えど、自分とほとんど同じ考え方で生きている人間が最大多数、約三十億人を占めているとしたら、世界はどのようになっているだろうか」と考えてみて欲しい。世界はより美しくなっているだろうか。それとも、より醜くなっているだろうか。

 退屈になってはいやしないだろうか。残りの七十億人を蔑んでいやしないだろうか。

 私の場合、ほぼ確実に自分たち以外の人間を馬鹿にしていると思う。しかしそれは感覚であるため、捨てることが難しい。私の差別欲求は、自分をこの時代の大衆と差別化していることによって満たされているが、もしそれができなくなった時、つまり私のような感覚の人間が大多数になり、私自身が大多数であるという実感を持ったとき、少数の、私にとって不快でしかないような人間を蔑み、攻撃し、痛めつけるということをしないと、私には言い切れない。
 少し自制心が緩んだすきに、差別意識が噴出し、そういう人間を痛めつけて笑うことがないと、私には言い切れない。

 やはり世界は多様でなくてはならないのかもしれない。つまり、非差別階級は、大多数の平等主義者たちであるべきなのかもしれない。
 そうであるならば、尖った特徴を持つ各個人はそれほど力を持つことができず、たとえ差別意識を持っていても、その差別意識によって他者を害したりはできないし、しない。
 大多数、大衆のことを蔑んでいる限り、少なくとも特殊な立場にある人、少数の立場にある人を蔑んだり、攻撃する必要がない。
 ただ大多数を憎み、それを下に見ているだけで、差別的な感情は発散されるうえに、誰も自分を「大多数である」とは感じていないので、結果的に誰も傷つかずに済む。

 本当にそうだろうか? 本当にそれでいいのだろうか?

 大多数への優越感情。多数派を常に蔑んでいること。そうすることが、本当に正しいことなのだろうか? 
 私にはそれが直感的にうまく認められない。感覚的な、本能的な、無意識的な、気持ちの悪さを感じる。

 その考えにはどこか、誠実さが損なわれているような感じがする。













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