意見も思想も自由でいいのだが

 noteには、よく本を読む人が多い。哲学に触れている人も多い。だからこそ、目についてしまう。

 自分の意見を強めるために、哲学者の言葉を引用し、そこから主張を出発させる。それは論文的な文化の影響もあるだろうし、新聞などでもよく見かけるやり方でもある。

 だが原著を読んだことのある者が、そのような引用を見つけると、たびたび頭を抱えたくなってしまう。明らかに恣意的な解釈、あるいは誤解であることがとてもとても多いからだ。
 専門家ならいざ知らず、素人なのだから多少の誤解は仕方がない。にしても、その著者が伝えたかったことの反対の内容をその言葉から読み取り、そこから別の話に繋げられると、私はそれを指摘したくて仕方がなくなってしまう。
「敬意が足りない」
「言葉に対する意識が低い」
「なぜろくに読んでもいない本から引用してしまうのか」
 言っても仕方がないような人がそういうことをするなら、別に何とも思わない。「馬鹿だからしょうがないな」でおしまいだ。
 だが明らかに、立場もあって、文章から頭の良さも伝わってくるような人がそのような致命的な誤りを犯しているのを見ると、私は目を覆いたくなってしまう。

 それはいつの時代でも見られたことだし、「名著」と言われているものの中でさえ、たびたび見られることでもある。誤解することに対する忌避感や恐怖心は、強く持っている人とそうでない人がいるから、仕方がないことだ。
 それに私自身もそのような誤解をしてしまったことが無意識的にあるだろうし(誰も指摘してくれないけれど)実際に後からそれに気づいて恥ずかしい思いをしたことも何度かある。
 人間は誤解する生き物である。そして、誤解を避けることのできる生き物でもある。「分からない」「知らない」という言葉は、白旗ではなく、別の出発点であるということを、自分に信じさせることのできる生き物である。それは、自らの未来を信じるということでもある。
 
 だがそこから「その、知りもしないのに知ったつもりになって語っている人の無知を暴くことも、その人自身の未来を信じるということである」というように推論してもよいのだろうか? 無知を暴くことによって、その人自身が「知らない」ということを認めることによって、その人自身が、新たな別の出発点に立つことができる、と、そう信じることの是非は、どうなのだろうか? 

 たとえば、とても善良で頭のいい人が、「プラトンもこう言ってます」(ここでプラトンを出す理由は、私が個人的にプラトンを好んでいるということと、プラトン自身が歴史上もっとも誤解された人物のひとりであるからです。分かりやすいでしょう?)と、自分の道徳観や生き方を説くときに、さらっとプラトンの言葉を引き出したとしよう。それがあまりにも、プラトン自身の意見とは相いれないものであったとしよう。(あるいはその言葉が、その本の流れにおいて否定的に捉えられていく予定の言説を語っているときのものであった、としてもいいでしょう。いずれにしろ、その引用が不適切であると考えられる場合です)
 その人の意見自体を、私は否定する理由がない。それはあくまで主観的であることを前提に語られたことだから、意見が異なっていることは当たり前であり、そもそも私はその意見自体に反感を持たない。しかし、引用の仕方が明らかに不誠実なのである。知らずに読んだ人が「へープラトンってそんなこと言った人なんだ」と誤解してしまうような引用なのである。私はこれに対して、耐えがたい苦痛を感じる。

 しかしそれを指摘したところで、もうすでに読んでしまった人の誤解を解くことにはならないし、その人自身の「知らないことを語る癖」が直らないのであれば、その人はその先もまた別の人のことを誤解したまま語り続けてしまうことだろう。だから、もしそれを指摘するならば、それを意味のあることにしたいならば、ソクラテスのやったように、徹底的に無知を暴き、その人自身が二度と誤解したまま別の人の言葉を引用しないように、遠慮なくはっきりと示さなくてはならない。

 だがそれは、相手が自分の言葉を理解し、それに納得する事を、他でもない自分自身が信じ、それを押し付けることを、自分自身にまず許さなくてはならない。それはある意味、私のような人間にとって、とても難しいことであるし、その是非、善悪を決めることも、簡単にはできないことである。

 私は他者との関係を構築するさい、自分の感情や衝動ではなく、その行動の結果によってどのようなことが引き起こされるかということを考えて動く。ゆえに、批判は、その批判自体が意味のあるものでなくてはならない。
 自分自身が成長するための批判であるならば、その場合は相手がその批判によってどうなるかは、あまり重要な問題ではない。だが、相手の無知を暴くということの場合、自分は変わらず、相手を変えるということなのだから、もしそれで相手が変わらないのであれば、私はたとえそれでどれだけ周りの人間が私に同意しようとも、私自身が議論に勝利したことによって自尊心が高められようとも、全ては無意味であり、むしろ私がそれを喜べば喜ぶほど、私という人間の低劣さを露呈してしまう結果になる。

 私は、黙っている。しかし黙っていること自体にも、大きな良心の呵責を感じている。誤りは誤りである。誤解は誤解である。特に死者に対する誤解、それも、小さな誤解ではなく、大きな誤解は、それ自体が決定的に損なわれてしまう可能性を生む。

 私は人の体の生き死になんかより、人の想いの生き死にの方が重要であると考えている。私は、人が殺されている場面を見て心を痛めることよりも(それで何も感じないという意味ではない。私は、それを見ても苦しむし、目を背けたくなる)人の思想が殺されそうになっている場面を見て心を痛めることの方が多い。

 「その程度のことで、偉大な人たちの思想が死ぬわけではない」と人は思うことだろう。そういうことではないのだ。その文章に触れた人及びその文章を書いた人が、決定的にその偉大な人の偉大な思想を誤解したまま生き、そして死んでいくしかなくなるという、その決定的な事態が、私には人の体の生き死によりも、ずっと重要であるように思えてならないのだ。

 私は、この時代に苦しめられている。私にとって犯罪としか思えないようなことが、犯罪ではないものとしていともたやすく行われている。それも、善人たちによって。私はそれが悲しくて仕方がない。

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