善には本質などない

 言葉の意味を探ろうとすると、人は混乱したあげく最終的に投げ出すことが多い。「それは私ひとりで決められることではない(≒みんなで考えていかなければならない)」というような結論に終わることばかりだ。

 そもそも言葉に本質などあるのだろうか。それぞれの単語について、アプリオリに(我々人間が定義するよりも先に)意味が存在することはありうるだろうか。

 全ての言葉は人間が実生活の都合のために後から生み出されたものであり、それが複雑に動くにつれ、コントロール不能な「意味の場(意味の全体像)(意味の構造)」が形成され、その不明性ゆえに、私たちはそれを「謎」であると感じてしまうのではないか? 私にはそう考えた方が自然に思える。

 たとえばよく議論される「善とは何か」という問い。私はこれを、はっきりと、こう答えたい。「善とは、他者及び己を精神的にある行為に誘導するための語である」と。
 私は何が言いたいか。それは言葉の目的論である。言葉には、目的以外に意味は存在しないと考える。意味というものは後から人間が『意味を探す』という目的をもって同意を形成した結果に過ぎないのではないか? つまり、辞書が存在する前は、言葉の意味に『正しさ』は存在せず、辞書が生み出されたのは、もともと存在しなかった『正しさ』が必要になったから、そこで無理やりに捏造されたものであったのではないのか? 私にはそう思えてならない。
 共通の規格が必要だから、共通の規格を作った。それが、言語の『意味の正しさ』の本質ではないか?

 と、するならば、言葉の裏側にあるものを探すのは極めてナンセンスである、というわけだ。
 そこにある意味は全て意味とは別に「目的」が存在し、意味よりも常にそちらが優先される。

 「善」というものの起源をたどっていけば、そこには必ず「善を定めた人々」がいて「善に従った人々」がいる。それは価値観の問題ではなく、生き残るための都合である。つまり私たちが共同生活を営むにあたって、邪魔になる行為や危険な行為を「悪」と呼び、その共同体の生存や発展に利益をもたらす行為を「善」と呼び、共同体員にそれを押し付けた。(奨励した、という言い方の方が柔らかいが、我々の耳に『善』はあまりに絶対的な響きがある。決して『自由』のうちにあることではなく、もはや命令的な強さを持ってして、私たちは『善でなくてはならない』と感じてしまう。これは、主人が奴隷に対して命令を下すときほどの力を持っている、と私は感じる。少なくとも私は『善』や『悪』にそこまでの圧力を感じる)


 私たちの時代は、共同体的な感覚が解体されつつある時代である。同じことを信じることや、同じ目的のために力を合わせることが、難しくなっている時代である。共通の規格が破壊され、それぞれが別のことを考え、別の正しさを持ち、別の道を歩んでいる時代である。だからこそ「価値観」や「多様性」という語が、頻出するようになり、本来それほど問う必要のなかった問である「善」や「悪」の裏側を探ろうとする人が多いのである。

 「善」も「悪」も、本来であれば、単なる社会的都合によって生み出された「命令の名」でしかない。
 「善」の意味するところは「善なる何か」ではなく「汝為すべし」である。「悪」の意味するところは「善でない何か」ではなく「汝為すべからず」である。
 私たちの時代は自由の時代であり、何に支配されるか己自ら選ぶことが許されている時代である。ゆえに、私たちは他者と関わるとき、互いに異なった「善」「悪」を持ち、そこに気分の悪さを感じ、根源的なもの、絶対的に共通のものを探ろうとする。それを見つけることによって、新しい「絆」を見出そうとする。それは一種の……本能的な、共同体を構成するために、衝動である。意味の一致、目的の一致、感情の一致、共同体を新しく産み出し、それを強固にするには、それが必要である。「絆」が必要なのである。
 共通の善悪は、強力な絆であり、私たちはいうなれば善悪を見失った時代、それまでのあらゆる善悪が解体された時代を生きている。

 人は無意識的に、もっとも強い根拠を欲する。覆らない命令を欲する。
 善悪の裏側や本質を探っても、そこには虚構以外何もない。神以上に強力な何かは存在しない。そして神は、死んだ。私たちはもう神を信じることができない。私たち日本人になじみのある言い方をすれば、私たちはもう「天皇」を信じることができない。かつて確かにそこにあった「人ならざる絶対的な日の本の神、天皇」という概念は、すでに死んでいるのだ。
 

 この時代の人々は、新しい善悪を欲しているのかもしれない。
 いや? 私が、か。確かに私は、善悪を欲している。決して揺るがぬ、絶対的な善悪を。




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