自己満足との離別

 小学生低学年くらいのころ「生きる意味」について答えを出した。
 それは「楽しむため」だった。「自己満足」だった。
 誰もが、そのために生きているのだと思った。いいことをするのだって、いいことをするのが楽しくて、自分自身を満足させるから、そうするのだ。自己犠牲だってそうだ。それが自分を満足させるから、そうするのだ。
 だからといって、手っ取り早く満足するのが一番いいかというと、そういうわけではなくて、人間は複数の事柄で満足感を感じることのできる生き物だから、その中でよく考えて一番自分に相応しいものを選んでいけばいい、と幼い私は思っていた。

 なぜだろうか。それができればきっと満足できると分かっていることを達成するために、それをしようとしたとき、体が反抗してできないことがあった。
 たとえば、誰かがいじめられているのを見た時、それをきっと助ければ自分は自分自身を誇らしく思うことができると分かっていたのに、なぜか足が震えて一歩が踏み出せなかった。
 なら、そのいじめられている子にあとで寄り添ってあげればいい。そう思って、その子が一人きりの時に声をかけようとしたのに、それすら、なぜかできなかった。
 頭の中に「そんな風に、自分が満足するために人を助けようとするなんて、恥ずかしくないのか」とか「お前のお節介で、彼女を余計に傷つけるつもりか」という声が絶えず鳴り響いた。
 私は何もしなかったことに、なぜか満足した。私は自分の心が分からなくなった。
 自分が何に満足できる人間なのか分からなかった。少なくともそれが「善いこと」ではないことは確かだった。私は、自分が満足できると確信して行った善行が、あまりに私にとって気分の悪いものであったことが多すぎた。
 全部、嘘くさく感じられたのだ。全部、無意味なことに感じられたのだ。私は善人ではなかったし、しかもその善人ではないという事実を認識すること自体、小さな満足感を覚えたのだ。

「橋本はさ、優しいよね」
 高校でできたさっぱりした男の友達がそう言ってきたとき、私は首を傾げた。そいつに、優しいと思われるようなことをした覚えはなかったからだ。
「私、君に優しくした覚えないけど」
「女の子って、すぐ優しいふりするじゃん。でも橋本は、そういうのがない。誠実なんだろうな、橋本は」
 私は少し考え込んだあと、こう答えた。
「じゃあ君の言う私の優しさは、多分優しさじゃなくて親切だよ」
「あぁそうだね。君は親切な人だし、俺は君のそういうところが好きだ」
「え?」
「隠しても仕方ないからさ、いつ言おうか機会を窺ってたんだ。返事はいらないよ。君が俺のこと好きじゃないのは知ってるからね。ただ、言いたかっただけ」
「はぁ……」
「それじゃあね。また明日」
「また明日」
 その好意はよく分からなかった。私は容姿が整っていたし、体の発育も他の子より早かったからか、中学時代よく告白された。全部断った。恋をしてる男の目が、なんだか気持ち悪かったから。
 だが、あいつの告白には、そういうところが一切なかったから、正直私は不意を打たれた。あいつが何を思ってそんなことを言ったのか理解できなかったし、だからこそ、それを知りたいと強く欲した。
 そして、その欲望を自覚した瞬間に、あることを理解した。

 「私たちは、自己満足のために生きているのではなく、私たちが生まれていく中で偶然生じた自らの欲望を満たしたときに自己満足するのだ。自己満足は結果であり、人生の目的そのものは欲望なのだ」と。
 私は、自分の欲望から目を背けてきたことを自覚した。同時に、それに気づけたのは、あいつの言葉のおかげだった。

「ねぇ。君はさ、自分の中の欲望のことをどう思ってる? 君は君自身の欲望を、許している?」
 そもそも彼と友達になったのは、同じ最寄り駅から通っているクラスメイトが彼しかいなかったことが理由だった。中学は同じだったが、一度もクラスが同じになったことがなかったから、互いに名前も知らなかった。いや、彼の方は知っていたかもしれないが。
「欲望?」
「そう。別に何でもいいよ。やってみたいことでもいい。欲しいものでもいい。誰かに勝ちたいって気持ちでもいい。そういうのをどう思う?」
「モチベーションにはなるよね」
「モチベーション?」
「うん。何か目標があって、それを達成するために役に立つものだと思う。自分へのご褒美ってやつ?」
「いや、そういう意味じゃないんだ。そういう意味じゃなくて……そもそも君は『目標』をどうやって定めているの?」
「目標、かぁ。俺はあんまりそういうはっきりした目標を、自分の気持ちで決めたことがなかったかもしれない。この高校に入ったのだって、ただ、何もしなくても勉強は得意だったし、親が一番いいところに行けるなら、一番いいところに行けって言ったからだし」
「じゃあ、私に告白したのは何? あれは何だったの? あれは君の欲望じゃなかったの?」
「えー……でも、欲望に基づいて好きって言うのは気持ち悪いでしょ? 俺、そういうのは控えることにしてる。そうじゃなくて、ただ人間として好きだと思ったから、そう言っただけ。君と付き合って、休日にでも遊びに行けたら楽しいだろうなって思っただけ。お互いの将来のことを相談したり、恋人にならなくちゃ話せないようなことを話せたら、楽しいだろうなって思っただけだよ。でも君がそれを望んでいないのは知ってるから、ただそういう気持ちだって言ってみただけなんだ」
 彼の言葉は穏やかで、言い訳染みた印象は少しもなかった。ただ本心を、そのまま語っているように聞こえた。あるいは、彼が心の中で、彼自身に対して「これを本心にせよ」と命じたことである言葉を。
 もしそれが、彼の抑圧の結果出てきた言葉だとしても、それなら私は彼のその試みを尊重したかった。
「私はさ……」
 だからこそ、言葉が続かなかった。
「その、もし俺に欲望があるとすると、ただ君ともっと色々な深い話をしたいってことだ。君のことをもっと知りたいし、俺のことももっと知ってほしい。それだけ」
「人は嘘をつくとき、その前に自分自身を騙すんだよ。私はそれを知っている。私は、それを君に気づかせてもらった」
「え?」
「私はね、この前君に告白された時、ひとつ重大なことに気が付いたんだ。私はそれまで、人間は皆自己満足のために生きていると思っていた。でも実際には、人は自分の欲望を肯定し、それを愛したときに満足するのであって、満足が目的なのではなく、満足は単なる結果に過ぎないのだと気づいた。
 それなら、私がそれまで信じていたことは何? 何よりも確かであり、絶対に変わらないことだと思っていた『人間は皆自己満足のために生きている』という命題は、いったい何だったの? 私は何でそんなものを信じていたの?
 それはさ……きっと、私が私を騙していたんだ。その方が楽に、欲望を満たすことができるから……でも、その欲望の満たし方は、満足をもたらさなかった。満足というのは、目的ではない。でも、その欲望のことを私自身が愛しているかどうかの指標になる。満足をもたらす欲望というのは、私の見えない心が愛している欲望であり、満足をもたらさない欲望というのは、私の心が嫌っている欲望だったんだ……」
 私は一息にそう言って、自分でも驚いていた。思っていたよりも上手に話せたのもそうだったし、何より、それを言うことに一切の抵抗がなく、しかも感じたことのない満足感で私の心が満たされていたのも奇妙だった。
「俺には、君の言っていることがまだちゃんと理解できない……でも……」
「でも?」
「語っている君の姿は、綺麗だった」
 私は自然と口角が上がっていくのに気づいたが、隠す必要がなかったので、そのまま笑んだ。
「私も、君のことは嫌いじゃないよ。もしかしたら、好きになれるかもしれない」
 空が一気に赤く染まっていく。並んで歩く。友人の距離だ。車の排気音とカラスの鳴き声が私の耳の中で争っている。
 細くて薄い雲が赤く染まった太陽の前を横切った時、私はこの瞬間をこの先の人生で何度も思い出し、時には泣きたくなるほど懐かしく思うのだろうな、と直感した。
「今日この日は、一度きりなんだろうな」
 ずっと黙っていた彼が、ふと立ち止まってそう言った。私は振り返った。
「多分、何もかもが一度きりなんだよ。でも、私たちが、永遠であってほしいと思った瞬間だけが、一度きりの永遠の中に閉じ込められる。私は、この夕焼けに、そう思った」
 夕日を背にした私の姿は、彼の目にどう映ったのだろうか。彼が静かに一筋の涙を流したとき、私は愛おしさを感じた。そしておそらく、これも一瞬なのだろうと確信した。

 あの美しく愛おしい瞬間と比べれば、私の自己満足などいったい何だというのだろう。
 あの一瞬の輝きと喜びは、決して帰ってこないものであり、しかも私の意図しないものであった。そこには、欲望も目標も満足も、入り込む隙間なんて一切なかった。全てが、そこで完成されていた。

 私たちはその瞬間、芸術そのものであった。もし私があの瞬間に固執してしまったなら、私はその再現のための空しい努力に一生を費やしてしまったことだろう。

 そうならなかった最大にして最高の理由は、私はあの瞬間とは別の美しい瞬間を、人生の中で何度も体験できたことだ。
 愛する彼と共に。

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