「若者にはこうであってほしい」が消えた現代

 ふと思ったのだが、私は大人から「こういう人間になれ」と明確に示されたことがない.。今までそういう時代はほとんどなかったのではないか、と思う。

「将来に向かって翼を広げる」
「それぞれの個性を最大限生かして」
「社会に役立つ優秀な人材に」
「失敗を恐れず新しいことに挑戦して」

 そういう言葉を今までかけられてきたけれど、それってどれもふわふわ浮いてて、捉えどころのない、誰が誰に言っても成立するような、中身のない「激励」であって、訓戒や目標と呼べるものではないと思う。


 いつの時代、どの地域においても、年長者は若者たちに対して「何が立派なことであるか」「何が善いことであるか」というのを示すのが義務であったように私には思える。老人たちは「若者にはこうであってほしい」と思うし、それを教えるからこそ、その期待に若者たちがそぐわない場合「最近の若者は」と、自分たちの共同体の将来を憂うわけだ。私は、その感覚は極めてまっとうなことだと思う。

 しかし現代を見ると、老人たちもその下の世代の大人たちも、若者に対して示すものが一切ないのではないか、と思うのだ。どのような徳も持ち合わせていない、という意味ではなくて、若者に対してどのようであってほしいか、という希望や期待がないのである。
 経済や社会保障の問題で憂えている人は多いのに、人間のことで憂えている人はあまりに少ない。どのような人間が「優れた人間」であるかは教えてくれないのに、「劣った人間になるな」とか「他に対して優っていなくてはならない」などといった、相対的な指標だけは、なぜか強く押し付けたがる。

 たとえば「優れた人間とは、家族を守ることのできる人間である」とか、「優れた人間とは、活発な経済活動を行い社会全体の豊かさに貢献できる人間である」とか、そういうことを教えてくれるのならば、それは相対的なものではなく、ひとつの「理想像」を形成するから、意味のある「善悪」だ。

 だが「より多くの金を持っている人間が、より優れた人間だ」とか「より高度な仕事をしている人間が、より優れた人間だ」などの相対的な「善悪」は、終わりがない上に、とてもとても息苦しく、あまりにも空しい。
 現代では、他でもない老人や大人たちが、そのようなもっとも卑しい価値判断の中で生きているのが多々見られる。だから、自分たちより若い世代に、人間はどのような人間であるべきか教えることができないし、教えるとしたら、それは自らの利益や感情のために教えるという、どこまでも下品でつまらないことしかできないのである。
 彼らはもはや、若い世代に「どのような生き方が美しいか」「どのような人生に価値があるか」教えることができない。
 なんて悲しい世の中だろう、と私は思う。示される善悪や美醜がないということは、従うこともできないし、反抗することもできないということだ。ただ距離を感じたまま、ぼんやりとした互いへの偏見を残して時間だけが過ぎ去っていく。


 私たち若い世代は、自分たちで自分たちの進む道を決めなくてはならない。厄介なことに、私たちは大した経験も積んでいないのに、自らの人生における重要な判断を迫られてしまう。

 情けない大人たちを頼るわけにもいかず、自らの貧弱な思考を信頼することもできない。ならば、先人たちが積み上げてきた歴史から多くを学んでいくしかないのではないか、と私は思う。

 相対的な生き方の先にあるものはもう見えているはずだ。勝っても負けてもため息と疲労しかない。勝って安心、負けて絶望、なんて人生、最低としか言いようがない。それが現代のスタンダードであるという現実から、私たちは目を逸らしてはいけないのではないか、と思うのだ。

 新しい善悪が必要だ、と強く思う。
 「こうであってほしい」のためには、先に「こうでありたい」がなくてはならない。
 私たちは、人間としてどうありたいのだろうか。

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