知的誠実さの声

 白状してしまうが、私には立派な奴隷根性がある。ニーチェの言葉を借りるなら、ルサンチマンや道徳意識、畜群本能とかいうものだ。

 これは現代では徳とされていて、逆にそうしたものの欠如が悪徳とされている。

 誰かと一緒にいたいという欲求。自分より優れたものを許容できないという本能。同時に自分より優れたものに従いたいと欲求するものであり、もっと言えば、自分より優れたものを支配したという欲求でもある。

 おそらく彼の主張するように「生まれながらの支配者」は絶滅し、現代では誰もが奴隷と支配者の両方の混血であるのだろう。

 だから私たちは苦しむのだ。


 私の心にはたっぷりと植え付けられた道徳意識が実っている。抜いても抜いても生えてくる、雑草のように。
 「あれをしてはいけない。これをしてはいけない」
 そういうやましい良心が、嫌というほど私の心を締め付ける。
 「それはお前に相応しくない」
 「くだらないことに力を使うな」
 結局そういう声は、私を弱くしている。そういう自覚はある。私の病気の原因でもある。この良心が、だいたい私から自然な快活さを奪っているのだ。腹立たしい。


 正直に言おう。私が「他者が云々」と言っている時、私はその「良心」というやつに、そう言わされている。
 私は実際のところ、他者のことなんてどうでもよくて……でも、もし他者のことがどうでもよいのであれば、私はいったい、何に価値を見出せばいいのだろう、と不思議にもなる。

 私はニーチェについて、ひとつ特殊な見解を持っている。彼の発狂についてだ。

 彼はかわいそうなロバに同情して狂った。だが別の言い方をすれば、彼は自らに禁じていたかわいそうな者どもへの同情を自らに赦すことによって、より自然な生き物として、完全に健康を回復した、と。
 あの病的な時代において、正気を保っていた人間の方が狂っており、彼はその狂気から脱出し、精神病院の中で、残りの生を健康に謳歌したのではないか? 誰にも理解できない言葉を、自分自身の中で楽しみ、それを最大限肯定し、幸せの中で生を終えたのではないか? 彼の狂気は、永遠だったのではないか? そこでは、終わりのないディオニュソス祭が繰り広げられていたのではないか? 私にはそう思えてならない。


 だとすると、私が思うに、あらゆる奴隷根性、ルサンチマン、嫉妬心、支配への欲求、近視眼的な同情、その何もかもが、私たちの生に必要なものであり、それを許し、愛し、楽しみ尽くしてしまうことしか、私たち異常な動物たる人間にとって、健康になるすべはないのではないか?

 私は実のところ、私の認識が、誰かを苦しめることを知っていてなお、それを楽しく思っている。
 つまり私の知性の明晰さが……誰かの「自分の知性の愚昧さ」を自覚させるきっかけになることを、それもよくできた人間が、今まで自分より優れた知性や認識作用を持っているのを見たことのない人間が、私という人間のそれを見て、それを情けなく思い、恥じて、私から目を逸らすことを、私は妄想して楽しんでいる。

 私の中にはそういう、愚劣極まりない欲望がある。確かにそういう欲望がある。
 それを正直に語るのもまた、その欲望の結果なのかもしれない。はっきり言って私は、出来の悪い人間だ。


 道徳意識においてもそうだ。私は自分の潔癖さについて、心のどこかで、それを見ることによって、私ほど潔癖でない人間が、後ろめたく感じることを想像して、楽しんでいる。
 同時に、もしそういうことがあるなら、私はなんて残忍な人間なのだろうと、そういうことも自覚している。自覚したうえで、気にしないことにしている。そういう想像を自分が楽しんでしまったことにも、その楽しみに呵責を覚えたことも、全部、単なる現象とその結果に過ぎないものとして、意識的に、見過ごすようにしている。


 ニーチェは、道徳意識のそういう作用について批判しつつ、彼自身も、そういう「より高次の道徳意識」を自ら持っていると主張することによって、人々に対する「残忍な徳」を発揮していた。

 彼は確かに正直ではあったが、それでもやはり、その点にかけては、無自覚的であり、あるいは自覚的であったとしても、それを書いたりはしなかった。彼は彼自身の「ドイツ人的な部分」「奴隷的な部分」「賤民的な部分」「畜群的部分」について、目を閉ざしていた。おそらく彼がそれを自分の中に見て取り、それを肯定してやり、その中で生きることを決心していたなら……と考えてしまう私は、あまりにも彼に対して敬意が足りないのであろうか?

 いや、当然のことながら、彼がそれに自覚的でなかったことが明らかであり、彼がその後自明の結末を歩んだことも、またひとつの運命として、人類史に残るひとつの実験の結果として、愛すべきものだろう。プラトンのそれもそうだし、パスカルのそれもそうだ。
 彼ら深刻な人間、己を見失った人間、自らの空虚さと豊かさの間で迷いつつ、結局何も選ばないまま、どのような計画も中途半端なまま、その生を偶然に委ねた人間。
 おそらく私たちは繋がっている。同類なのだ。
 誰かへの素朴な愛情の結果、私たちは結果を残す。その後、自らの苦しみを解決しようと欲し、悩み、迷い、現実の中で何かを成功させようとするが、失敗する。ならば、と、自分の死後に、己の望む未来を世界に実現しようと欲する。そのための準備をするが、心のどこかでそれが空しい努力であることを分かっている。それがうまくいかないことを分かっている。

 プラトンは、もっと「善い世界」を望んだ。そのために尽力した。結果、違うものが生まれた。
 パスカルは、人々に神を信じさせることによって、自らが神に近づくことを欲した。結果、違うものが生まれた。
 ニーチェは……まだ結果は出ていないが、おそらく彼が望んだものとは違うものしか生まれない。超人が今後生まれたとしても、そいつはどうしようもない同情屋であると考える方が自然だ。どんなものにも共感してなお、己を失わないほどに確固とした「自己」を持つ、精神の化け物であろう……(ただ、彼の描いたもっとも超人に近しい人間であるツゥラトゥストラもまた、同情屋であり、それを自覚し、快活に、その性質を「俺の最後の罪」と言ったことは、彼の知性の高度さをよく示している)

 人類を大きく進歩させた彼らの個人的愚行は、どれほど愛しても愛したりないほどだ。


 私が話をそうやって哲学史の方に逸らすのは、きっと無意識的に、私にとって都合の悪いことが語られようとしているからだろう
 私という人間の、卑しい部分。

 いや、実のところ、その私が卑しいと思っている部分にこそ、私という肉体の賢さが宿っているのかもしれない。

 私はこの世の中を、この社会を、私向けに作り替えたいと思っている。正確には、私の同類向けに、だ。
 死んでしまった彼への手向け……というのはきっと、見苦しい後付けの理由づけであろう。実際私の肉体にとって、もはや何もできずに死んでしまった人間のことはどうでもいい。私の意識はそう思いたくない、そう思うべきでないと主張しているが、私の誠実さは、そう語っている。

 私が、死んでしまった私と同類であった年上の男性のことを語るのは、その事実を語ることによって、私の語っていることに、より強い説得力が宿るからだ。私の動機とその目的が、より強く、他に対して正当化されるからだ。
「あのようなことが二度とあってはならない」
 そういう言い方ほど、強く、反駁できないものとして、人の耳に響くことはない。
 それが正しいかどうかは重要ではなく、その激情は、演出された激情は、否定するのが危険なものであるからだ。

 人がもっとも反論できないこととは、反論したときに何が起こるか分からない事柄である。
 そうしたものに反論することができる人間というのは、おそらく、もはや自分自身の人生が「何が起こるか分からないもの」として受け入れている者であろう。
 つまりは精神の遭難者のみが、あらゆることに疑念を抱き、あらゆることに「NO」が言える。

 私の誠実さはいつでも、私の不誠実さを告発し、それを他者に対して主張する。

 私はいつも、こう語らざるを得ないのだ。
「私は嘘つきであり、油断したそばから、あなた方に概念の罠を仕掛けてしまう。私自身、何とかこれを抑えようとしているが、うまく行かないことの方が多いと思う。だからどうか、君自身、まんまと引っ掛かってしまわないように、用心してくれ。あるいは、私のために、あえて引っ掛かってしまってくれ。私は誰が引っ掛かっても、それを喜んでしまうから……」

 何が私をここまで誠実にさせるのかは分からない。人間はもとより誠実でない生き物であり、誠実でない方が有利な生き物であった。
 誠実さが生物にとって有利になるのは、他が誠実であるかどうか、識別できるだけの「よき目」を持つ動物が自分の周囲に存在するときのみである。
 同時に、そのような「目」が必要になるほどに、他の不誠実さが巧妙かつ危険となり、己にとって不利益となることが予感された場合だ。

 たとえばニーチェの場合はそれがとても分かりやすい。彼は、世界大戦を完全に確実なものとして考えていた。彼はそこで起こるあらゆる正義とその別名である不正に対して敏感であると同時に、吐き気も覚え、そのうえで、目を背けることを生涯ずっと続けた。彼は、意地でもその時代の政治と関係を持ちたがらなかった。その点では、心の底から清潔さを求めていた。
 彼らしくない、人間的な激憤に駆られてでも、彼は彼にまとわりついてくる、後に大犯罪者たちと蔑まれることになる『反ユダヤ主義者』を追い払おうと試みていた。それに失敗し、結局そいつらに利用され、ひどい目にあったのは、ある種皮肉だが、その点に関しては、悲しき必然でもある。

 国家の嘘というのは、何よりも人間という生物にとって危険であり、その罠にかかったものは大量に死んでいく。
 おそらく戦後、フェミニズムが一気に進んだのは、二度の世界大戦で「男らしい男」がまとめて死んでいったからだ。比較的死者の少なかったアメリカなどでも、大戦後、それに合わせて意味もなく兵隊を死なせたり、病気にしたりして、上手に片づけた。
 そういうわけで、女性が、男性の役割を演じることを求められ、それ用に訓練されるようになった。男女平等とは、実のところ「必要に迫られて」なのだ。

 私のような人間が生まれて、順調に育っていることも、その何よりの証拠だ。私は時代に求められてここにいるのだ。決して、私自身が選んだわけではない。ただ私の誠実さは、積極的に、それを自分が選んだことにしてしまいたがる。その方が、私自身の生にとって、都合がよいからだ。

 おそらくはこのような、私自身の中に存在するどうしようもない矛盾、両義性は、私の人生にずっとついて回ることだろう。
 なぜならば、この両義性――どちらでもあれるというその、都合のいい可変性――は、私という一個の動物にとって、有利にはたらくであろうからだ。

 あるいは有利に働かなかったとしても、私はそれを甘んじて受け入れるしかないだろう。
 生物というのは「個」が集まって存在しているのではなく、「集団」が「個」を必要とするから、その要請に応じて「個」が生じてくるのだ。
 だから、その集団が、個に対して、「汝、破滅せよ」と命ずるならば、個は死に絶えるしかない。
 私は集団に許されて個として存在するし、集団がそれをもし求めるなら、私自身集団に同化したり、あるいは個としての己を自ら引き裂かねばならない。それが生物としての宿命であり、私の中の知的な誠実さの語るところである。

 私の声はいったいいつ届くのだろうか? それとももう、私が気づかないうちに、届いているのだろうか?

 私の同類が、私と違うところで、私と同じことを叫んでいるのだろうか。私たち、時代に相応しい知性を持った者たち、考え、悩み、指摘し、要求する者たちが……

 もし人間の集団的な動物論が正しいのだとすれば、私がやっていることは、集団がその中でもっともふさわしい人間にそれを求めた結果、そうなっていることだ。
 そして、通常、報酬を必要としない人間に報酬が与えられることはない。だから、私の語ったことの影響は、じわじわと、しかし確実に、この現実に影響していき、何らかの変化を及ぼす。私に報酬を残さない形で。
 だが残念ながら、必然的に、その変化は私の望んだものにはならない。歴史がそれを証明している。彼らは必要とされてそこにいるが、しかし彼らの望んだように、世界は動かなかった。彼らが想像していたより、もっと豊かで残酷な世界が展開されていった。
 もしかすると、彼らが恐れていた事態が、現実化してしまったのかもしれない。

 だとすると、私のもっとも恐れることとは……私の愛する、彼女のような人間が大量に生まれ、その結果、彼女のような人間が大量に損なわれることだろう。
 あの、私がそうでありたかった理想の「人間」たる、理知。呵責なき己であろうとたゆまぬ「自己保持」を試み続ける、あの頑固者。彼女が、くだらない人間や下劣な人間と関わり、その精神性が濁り、もう戻らないほどに傷つけられ、混ぜられ、別の存在になっていく様ほど、私にとって吐き気を催すものはない。胃がむかついてくるものはない。
 だから、私はそういう未来があったとしても、私はその未来については目をつぶり、その先の、私とは関係のない、もっと輝かしい未来について考えないといけない。
 それは恐ろしくも、美しいものであるに違いない。

 彼女より、さらに高次の存在。彼女より、さらに複雑で、確固とした存在。そういった者たちが、おびただしいほど存在し、その生を楽しんでいる時代。

 そうであってほしい、と望むしかない。

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