科学が力を持てば持つほどに

 科学の力は利便性と結びついている。真理の力、という言い方をしてもいい。

 つまり大衆(非科学者)の役に立たない真理は大衆にとって何の価値も説得力を持たないので、それが大衆の生活に結びついてはじめてそれに価値を認めるようになるのだ。

 つまり、大衆にとって大事なことは「しばらく掃除をしないと過ごしづらくなる」とか「お金がないと生きていくのが苦しくなる」とかであって、大衆が科学の価値を認めるのは、そういったが事柄への対処が、科学によって楽になるからなのだ。

 たとえば家電や建築技術などなど、文明が文明であるには、科学的方法論が必要不可欠であったし、科学という言葉が生まれる前から、私たち人類にはそういう傾向があった。
 つまり、分からないことを実際に試して試行錯誤し、そこにある法則と方法論を確立していく、という課程のことだ。

 科学というと物理や化学のことを想起する人が多いかもしれないが、古くから人間がその「科学的思考」「科学的方法」を用いてきた対象のひとつは、建築である。建築、すなわち私たちが物質的な世界において、その物質を自らの過ごしやすい形に変え、積み上げていくということをする場合、それは想像と実際が強く結びついていなくてはならない。曖昧な要素は、少なければ少ない方がいい。

 工学と数学を結びつけるものが科学という見方もできる。


 ともあれ現代では科学というものが非常に強い力を有している。あらゆる分野に手を伸ばし、それが実際に私たちの役に立っている。
 科学的でないものを信じるのはもはやナンセンスであり、私たちがまだ証明されていないものを信じる時でさえ、それはいつか科学的に証明されるものだと想像しながら信じている。

 そう。科学のことをよく知らない宗教の信者ほど、いつか科学が自分たちの宗教の正しさを証明すると思っているのだ。

 脱線するが……あの世について少し話そう。

 たとえば子供がこんなことを言ったとしよう。
「もし僕に言いたいことがあったとき、それを言わずに黙っていたら、僕の言うはずだった言葉は、僕の体の『どこ』にあるの?」
 私たちはこう答えるしかない。
「私たちが言葉を話すのは、喉のこの辺で音を鳴らして、特定の周波数うんぬんかんぬんであるからして、つまり言葉なる『物体』があるわけではないんだよ」
 心もそうではないか? 目に見えないものの多くは、確かに「在る」が、物体とは同じ存在の仕方をしていないし、だからといってその存在が解析不能というわけではない以上(音のメカニズムを私たちは理解することができるように)この意識や心、魂と言ったもののメカニズムも、確かに理解できるものだと考えられてしまうのだ。

 その「理解」の領域に足を踏み入れるなら、一切の神秘主義から足を洗わなくてはならない。その先のことを確かめられる土台だけを、仮定しようと試みなくてはならない。

「私たちの肉体を離れて精神は存在するか」
 という問いにたいして、徹底的に、一切の疑いの余地もなく「ない」と言いきらなくてはならない。
 もちろんその「ない」は私たちの精神にとって確実なものではなく、あくまで私たちがものごとを科学的に、つまり実際より単純に捉えることによって理解可能なものにしようと試みるならば、必ずその立場に立たないと混乱して前に進めなくなるから、そのために作り出した立場だということを忘れてはならない。

 「でももし神様が私たちにそう思わせようとしているだけだったら?」というような、あらゆる特殊な例外可能性を持ち出されてしまっては、私たちはその可能性を否定することができなくなる。あらゆることを実験をして確かめる価値もなくなるし、より確からしいものを追い求めることも難しくなる。
 だからこそ私たちが科学的に何かを追求するならば、まずはじめに「一切の世界外的な例外可能性は許容しない」という前提に立たなくてはならないのだ。

 私たちが「科学」という宗教を信じるにあたって、それを単なる「便利アイテム」ではなく「一個の信念」として見るのであれば――科学という実用的な宗教に対して、己の人生を帰依し崇めるのであれば――確かに私たちは唯物論的な立場に立って物事を考えなくてはならない。
 科学と宗教の間にある明確な差はその圧倒的な実用性である。宗教にも実用性はあったが、科学と比べるとあまりに小さい。美しい嘘を信じて協力するよりも、美しくない真実を理解して自分たちのために利用する方が私たちの生活の役に立つというわけだ。
(もちろん科学にはもうひとつの側面「真理への愛」というものもある。数学者が数学を愛するのに近いように科学的真理を追い求めた先には必ず「美」があるはずだと信じている人々もいる。彼らの科学信仰は大衆のそれよりもはるかに高度ではあるのだが、結局のところは大衆の利便性信仰に支えられており、その成果も大衆の利便性に還元されてしまう。少なくとも現代においてはそうである)

 私たちの生活は不愉快なほどに科学という土台に支えられている。科学なくして文明なし。平和もなし、だ。
 ゆえに、もし私たちが動物園で生まれた動物のように、自分たちに与えられた環境(社会や文明)がいったい何であるのか考えず、あるものをあるとして受け入れるだけであれば、私たちは古い宗教も新しい宗教も自由に信じていいが、もし私たちが自分自身に与えられた環境に対して誠実であろうと欲し、その時代と環境に相応しい人間であろうと考えた場合、確かに私たちは、科学的になる義務がある。

 科学的世界観は「確かさ」に価値を置くがゆえに、可能な限り不確かさを排除するしかないし、その価値を貶めずにいられない。そして人間というのは不確かでしかない生き物だ。科学は実のところ、人間の人間性を否定するところに成り立つ。
 
 私は時々思うのだ。科学的世界観は、人が生きるのに適していない。そこはあまりに無味乾燥であり、美しくない。科学の世界には神も英雄もおらず、数多の天才ですら、もはや学問の土台にところせましと敷き詰められた礎石のひとつにしか見えない。
 だがそれでも、その人々の努力の結果として今の私たちがあるのならば、私たちはそれに対して誠実でなくてはならない。

 たとえば私たちがこの時代、ある宗教を信じたとすると、結局私たちの豊かさや幸福は、その神や仏が私たちに与えてくれたものだと信じることとなり、当然学問を進めてきた人の努力や私たちへの愛情に対しては、裏切らなくてはならなくなる。彼らのことは忘れなくてはならなくなる。
 私にはどうにも、そうあるべきとは思わない。むしろ、いるか分からない神や仏を信じるよりは、先人たちが積み上げてきた確固たる土台を愛し、たとえ苦しくとも、背負って立たなくてはならないのではないか、と思うのだ。

 そういうわけで、他の人はどうか分からないが、私は確かに、科学的な世界観の上に立ってものを見なくてはならないし、そのためにはあらゆる一切の特殊事例への可能性、つまり信仰心は、あくまで美しき妄想であるとみなさなくてはならない。
 そして信仰心が美しき妄想であるならば、人間が信じる一切のことは、科学も含め……美しき妄想の一形式であると捉えねばならない。
 それらは私たち人間という名の知的動物が作り出してきた発明であり、生きる手段、広がる手段、未知への手段、そういうものであったということを承認せねばならない。

 そして、私たちが、科学的土台に立って自分自身を眺めてみたとき、そこに立っているのが二足歩行になった猿である以上、私たちは二足歩行の猿らしく、ある程度は……宗教的であってもいいのではないか? と。
 そう考えてしまうことも、またひとつの必然であるように私には思われるのだ。

 ともあれ私たちは、科学という光の対価として、神を失った猿なのだ。
 だがそのようにして、人間を動物の位まで引き下げてみると、人間という動物があまりにも他の動物と比べて素晴らしい成果と輝かしい道を歩んできたという事実を見て、私たちはつい嬉しくなってしまう。
 もし私たちが神に創られた、不完全な神の似姿であったとしたら、私たちは確かに惨めになってしまう。同時に、他の動物に対して絶対的な権利を有している、とも考えたくなる。
 しかしもし神など存在せず、それはただ、動物から進歩して生まれて意味不明な生き物としての人間が、神なるものを発明し、それによって自らの道を光で照らしてきたのだとしたら、私たちはもはや、別の目で、別の愛で、神なるものを愛せるのではないか?
 また、この自然と動物に対して、絶対的な権利を有していると……己に対して、信じてもいいのではないか?

 私たちの無謀さが、宗教や科学を作り出したのだとしたら、私たちはもっと無謀になってもいいのではないか? 無謀に考えてもいいのではないか?

 科学は人間を小さくした。神の光に高められていた人間は、科学の光によって神を捨てたが、それによって小さくなって、動物に逆戻りした。
 古い宗教を信じている人間の方が、科学を追及している人間より高度で優れた人間であると、他でもない科学者自身が認めたくなってしまうほどに、科学は人間をより小さく、くだらない存在にした。
 それは本当のことだから、私たち非科学的なものを愛する無神論者は、それを認めなくてはならない。宗教を信じている人間の方が、そうでない人間より、はるかに立派であったし、優れた人間たちだった。私たちの科学的な誠実さ、つまり人間そのものすら自然の内に組み込み、観察し、都合の悪い事実ですらまっすぐな目で見る誠実さは、私たちにこう語らざるを得ないのではないか?
 科学よりも、詩や文学、宗教の方が、人を豊かにしてきた。
 科学は人の生活を安全にし、豊かにし、幸福にもしてきたが、その代わり、人間がそれまで求めてきた「人間性」や「美しさ」「利他心」その他、人間の中でもっとも他の動物と区別されうる崇高さを奪ってしまった。

 科学は、人を従順にさせ、問題の少ない動物に変え、より小さくて平和的な動物に変えた。その結果、科学は人間の「面白さ」や「素晴らしさ」、何よりも「信仰心」を奪ってきた。私たちの「こうであらねばならない」を奪ってきた。
 目指すべき人格がない。守るべき他者への義務がない。個人的な、人間の美しさの権利が、丸ごと奪われてしまった。人権などという動物愛護法にその座を奪われてしまった。
 科学の世界に偉人はいても聖者はいない。聖者らしき者はいるが、人々が彼を褒めることはあっても、彼を目指すことはない。彼が聖者足り得たのは、人格や努力によるものではなく、単に才能と虚栄心によるものだと思われているからだ。(実際には人格や努力によるところが多かったと、私は個人的に考えているが、そもそも人格や努力という言葉自体が科学とは相性が悪いのだ……)

 私たちは何を必要としているのだろうか。あるいは「私」は「私たち」に対して、どうあってほしいのだろうか。
 私たちは科学によって、自然を「道具」に変えて、自分たちの都合のいいように用いる技術の大規模化に成功させた。もはや私たちにとって、あらゆるものが私たちの欲望を満たすための道具に見える。他者でさえ、そのように見えてしまうことがある。同時に、自分の肉体でさえ、自分の欲望を満たすために使うことが自然になった。
 だが生物の根本的な生存理由は、己の欲望でもなければ誰かの欲望に付き合うことでもない。そもそも、生物には「生存理由」などないのだ。欲望は単なる現象であり、それに価値を置くのは、その欲望以上に価値あるものを自ら定める力を持っていないからなのだ。

 価値を見定め、それを自らに従わせる力すら、弱くなってしまった。自分の人生の根幹が「欲望」や「満足」にあるなどと考えてしまうほどに、私たちは価値というものを見失ってしまった。信仰心というものを失ってしまったのだ。

 だが私は、そこから先に進む道が見えている。それは何か。他者を尊重することだ。他者の信仰心を、愛し、認めることだ。
 否定することではない。関係ないと割り切ることでもない。私たちの過去に対して誠実になり、私たち自身が、私たちに相応しい虚偽を、信仰心を、受け入れることだ。
 それでいて科学的信念を失わずに、だ!

 私たちがより深い人間、より優れた人間、より意味のある人間になるためには、欲望と手を切るのではなく、今ある欲望より優先すべき価値を見つけなくてはならない。あるいは、作り出さねばならない。
 そして一回きりの行動を、断固として行動せねばならない。私たちの欲望を満たすための行動ではなく、私たちの欲望を超えるための行動を。

 もっと難しい言い方をしよう。己の幸福を超えるための行動を、だ。

 一回きりなら許されるのだ。
 なぜならば私たち人間の美しき行動の全ては「再現性が得られない、非科学的な特殊事例」であるからだ。

 私たち個人は、これを目指さなくてはならない。再現性を追求する科学という学問が力をつけるなら、私たちはそれに相応しいほど、科学によって捉えることのできない一回性の生き物になろう。

 科学とは、私たち一回性の知的動物がより豊かな未来を作るための土台であると私は信ずる。全ての科学は土台であって目的ではない。
 豊かさ自体が目的なのではなく、豊さの上に立つ「遺産」こそが、私たちの目的であるのと同様に。

 そもそも、科学というもの自体が、単に私たち人類を知的な意味で訓練している何かでしかないのではないか?

 千年後の未来が恋しい。

 「美しい心」という言葉が「純粋」とか「穢れがない」とか、そういう貧しい意味でばかり語られるこの時代に吐き気がする。

 人間はいつの時代も自分自身のことを忘れようとする。結局何を考えても何をやってても、その頭と心で考えて行うしかないのに。

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