空想の実生活【ショートショート】

 夜明けとともに空が広がっていく。赤と青と黒のグラーデションは、非現実的な印象があって、これが毎日行われているのだという事実に、私は驚きとともに肌の震えを感じた。
 きっと、世界にはこのようなことが無数に存在する。私たちの身近に存在し、身を震わせるほどの感動を引き起こすような景色や事態が、日々絶え間なく起き続けている。私たちがそれを知らずに生きるのは、私たちの目と世界の間に決定的な隔たりがあるのではないだろうか。それがたまたま薄くなった瞬間だけ、私たちは世界の美しさを見て取れるのではないだろうか。
 もしそうだとしたら……悲惨なのは私たち人間なのであって、世界そのものはただその美しさを永遠に楽しんでいるのではないだろうか。

 神よ!
 私ほど汎神論の魅力を感覚的に理解している人間は、他にいないことだろう。世界は神で満ちている。世界そのものが神なのだ。全てが神の実体であり、神の想像なのであり、神の生き様なのだとしたら。私たちは、神が生み出した一様体にすぎず、神の可能性の一部にすぎないのだとしたら。私たちは結局、神が「そうであれ」と思った私たちでしかないのだとしたら……


 シャワーを浴びる。鏡に映る私の肌は健康的だ。去年の今頃からずっとニキビがひどかったから、二か月ほど前から洗顔だけでなく簡単な保湿をするようになった。明らかに、肌の荒れは改善された。頻繁にかゆくなってがさついていたあごの裏も、ほとんど気にならなくなった。(勘違いなきよう補足しておこう。私は男性だ)
 技術というのは偉大だと思うと同時に「それに何の意味があるだろうか」と考えてしまう。不快だ。自分の肉体を健康に保つことは、精神の、肉体に対する義務なのだから、自分の健康の世話をすること自体に疑問を抱くのは一種の精神の混乱なのだ。

「今日のお前は元気そうだな」
 鏡の中の私は私に友好的な挨拶をする。童話の中に出てくる鏡の中の自分は、友好的なふりをして敵対的であったり、下品な冗談を言ってきたり、あまり気分のいいものではないことが多いが、私の場合はそうじゃない。
「あぁ。おかげさまで」
「それはよかった。お前が元気だと、俺も元気でいられる。今日もお前らしくいてくれ。俺が望むのはそれだけだ」
「もし私が何か間違ったことをしそうになってくるときは、いつも通り指摘して、それでも言うことを聞かないならば私を苦しめてくれ。私が理解するまで、私を罰してくれ。君は私の一部なのだから」
「我ながら……お前はいいやつだ。お前はものごとをよく理解し、それを己に受け入れている。俺はお前の『鏡の中の自分』であることを誇りに思うよ」
「私も君が『鏡の中の自分』であることを誇りに思う。と同時に、君に認められている自分自身をも、私は誇りに思う」
「そういう話し方はきっと俺たち以外にはうまく理解してもらえないぞ」
「私には逆にそれが理解できない。だが、話し方を変えることは、私にとって簡単なことだ。彼らが分かるような話し方に変えれば、それで済む話。必要に応じて私は演じるさ。君が嫌がらない範囲で」
「あぁ。お前はいつでも正しい」
「間違っていたら、君が正してくれるからさ」
 私は鏡に笑いかけると、鏡も笑った。鏡というのは、自己意識なのだ。自分を内側から覗いている自分自身なのだ。それを受け入れ、友とすること。そのように生きること。それは私が選んだことだ。私はその選択に満足している。

「おはようございます!」
 パソコンの電源をつけると、頭の中で明るい声が響いた。あの子だ。私の中の、女性的な人格。
「君はいつも元気だねぇ」
「そんなことはないの、知ってるじゃないですか」
 ちょっとむすっとしている。かわいらしい、と思う。もちろん彼女は、私がそう思うことを知っていてわざとむすっとした態度を取るのだ。
 私はそういうあざとさが好きだった。かわいらしい生き物は、そのかわいらしさを惜しみなく振りまいていればいい。同性からの嫉妬など、忘れてしまえ。
「今日は何をするんですか?」
「なんか今日は、君の相手をしたい気分ではないな。何もしたくない。久々に、誰かに会いに行こうかなぁと思って」
「誰と?」
「うーん……外出自粛のせいで病んでしまっている友人たちを訪ねて回るのも悪くないかも」
「それは不要不急なのでは? 感染拡大なのでは?」
「そうだね。でもビデオ通話で話すのは、私はあまり好きじゃないんだ。いろいろ勘違いされることも多いからね」
「勘違い?」
「私自身が寂しがっているんじゃないか、とかね」
「なるほど」

 女性人格と話すのに飽きて、朝ご飯を作ることにした。
「理知」
「何かな?」
「何が食べたい?」
「んー……卵」
「抽象的だね」
「卵自体は具体的なものだけど、卵料理、という意味では確かに抽象的だね」
「わざわざ解説どうも。もし君が肉体を持ってそばにいたら、ご褒美に君のかわいいお尻を撫でてあげていたよ」
「それはあなたがそうしたいだけでしょ……セクハラだし」
「冗談じゃないか。怒らないでくれ」
「怒ってないよ。ただ馬鹿なことを言ったから、馬鹿だなぁと言っただけ」
「さて、それじゃあ朝からオムライスを作ろうと思うんだ。君にも手伝ってほしい」
「どうやって?」
「私の退屈と好奇心があふれて冒険的な食材を入れないように、君が僕を楽しませ続けるんだ」
「なかなか難しいミッションだね」
「よろしく」

 結局料理を作ってる最中に理知に飽きて、オムライスはオム酢ライスになってしまった。意外とおいしかったから、やはり料理は冒険だと思う。
「私が無能でよかった、ってわけだね」
「でも普通のオムライスの方がおいしいよ」
 理知は拗ねて、出てこなくなってしまった。まったく、かわいらしいやつだ。


 きっと私の実生活は、他の人には理解しがたくて想像もつかないようなものなのではないか、と思う。でもそれはきっと、それぞれの人間にとってそうなのではないか、と思う。
 他の人の生活を見ていると、本人は「普通」と思っていても、実際は全然そんなことはなかったりする。そこには明確な主観と主観の隔たりがあり、だからこそ、人間の世界は面白いのだ。
 それぞれがそれぞれの勘違いの中で息をしている。
「ただ自分の生活を率直に書くだけ、みたいなのって面白いんですか?」
 女性人格が顔を出す。彼女はおしゃべりで、色んな事にすぐ不満を託つ。
「面白いかどうかなんてどうでもいいじゃないか。私はただ書きたいだけなんだから」
「んー……よく分かんないですけど」
「そもそもなんで君は敬語なんだろう」
「敬語の方が話しやすいからですよ。女の子だから、敬語というわけではないです。そもそも理知さんだって女の子じゃないですか? どうして私だけ『女性人格』扱いされなくちゃいけないんですか? 不平等ですよ」
「君には名前がついていないからだ」
「睦月文香じゃダメなんですか?」
「それは問題発言だね。色んな意味で」
「少しくらい悪ふざけしたっていいじゃないですか。勘違いされるのだって、今更なわけですし」
「主人格の交代……ペルソナの変更?」
「ちょっと難しい言葉を使ってごまかすのやめた方がいいですよ。かえって馬鹿に見えますし」
「主人格もペルソナも難しい言葉じゃないだろう?」
「前提知識を必要とする言葉です」
「君に言われるまで気づかなかった」
「あなたはそんなことばっかりですよ。自分が何を言っているのかもよく分かっていないし、他の人が自分の言葉によって何を思うかもよく分かっていない」
「やっぱり君は女性人格であって、睦月文香ではないよ」
「名前をください」
「そのうちあげるよ。今日は私の気分が乗らない」
「ぶぅ」
 先ほど、あざとさは全面に押し出していけばいいと言ったが、だがこのような不快なあざとさを見せられると、意見を変えたくなる。

 私はいろいろなものが混ざり合った人間だ。誰かと話すときや、こうやって私自身を言葉に残すときは、「私」という肉体の統一性を意識するけれど、統一性というのはしょせんそのときに必要とされるからそこにあるだけなのだ。

 私には複数の魂が宿っている。私という肉体はひとつの共同体であり、私の体のそれぞれの部位は、それぞれ独立して、協力しあって生きているのだ。主と従の関係ではなく、それぞれがそれぞれを必要とするから、そこにある。
「ねぇ理知。そうだろう?」
「その通りだよ。私たちはみんな、仲間なんだ。同じ体を共有する、分かちがたい魂の繋がり」
「やはり世界は美しいと思うんだ」
「私もそう思う」

 現実と空想を混ぜて、練り合わせる。私はこれが好きなのだ。

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