私たちが正気であり続けるのは当たり前のことではなく、平均台の上を歩き続けるような難しい事なのである

 正気とは何か

 現実において狂っている人を見かけることはあまりない。しかし人は、自分とは違う意見を持って生きる人間を「狂っている」と判断することはある。
 私自身の判断としては、間違っていることを無邪気に信じ込んでいる人を狂っているとは、言えないと思う。
 私たちは偏見に囚われたり、自分に都合のいい事実を選んで無邪気に信じ込んだりする生き物であり、そういう状態は「正気である」と私には思える。

 では狂っているとはどういうことなのか。実際に精神病院に行って、患者の人たちを眺めているとよく分かる。この世には、完全に狂っているとしか言えない類の人が結構たくさんいる。
 夢と現実の区別がついていない人。同じ言語を話しているはずなのに、まったく会話が成り立たない人。私たちには見えないものが完全に見えている人。過去と現在と未来の区別がついていない人。

 ただ頭が悪かったり未成熟であるだけなら、別にそれで狂っていると言えるわけじゃない。発達障害の方々は、私の経験によると、ほとんどの人が正気であるように思える。自分なりに見て、判断しているという点では他の平均的な人たちと変わらないと、私には思える。

 狂っている人たちは、ただ頭が悪いのではなく……完全に、世界と精神が分断されているように私には思える。

 世界と精神が分断されているとはどういうことか。つまり、完全に……彼の見ている世界が、彼自身の世界の全てになってしまっているように、私には思えるのだ。彼にとって、彼が見たことや感じたことが彼の全てであって、自分に感じられないものが世界に存在することなど、考えたり疑ったりすることすらできていないように、私には見える。


 狂気にはもう一種類あると、私は思っている。ひとつは、さきほど述べた世界と精神が完全に分断されているという状態。(つまり、客観性が完全に失われた状態)
 もうひとつは、世界と精神が完全に結合され、精神の独立性が失われている状態。(つまり、主観性が完全に失われた状態)
 これは、大衆の熱狂によくみられる。人が大人数集まり、同じ行動をただ繰り返すことに陶酔と一体感を覚える。その時には、彼らは自分が何に動かされているのかも分からず、ほとんど覚えてもいない。責任能力は欠如し、夢の中を歩いているような感覚で時間を過ごす。

 彼らは我に返ったとき、決まってこのように言う。
「夢のような時間だった」
「私はなんであんなことをしたのだろう?」
「私はあの時おかしくなっていた」
 ファシズム的な熱狂もそうだし、アイドルを崇拝する人たちにも、似た部分がみられる。ひとりひとりは良識のある正常な精神を持った人物であるにも関わらず、集まって騒いでいるときは、完全に自制心が欠如し、普段なら絶対にやらないことや言わないことを、何の抵抗もなく行ってしまう。
 人は、ある一定よりも多い人数で集まり、同じ行動を意志して繰り返している時、一時的な狂気に陥る。彼はその瞬間「自分」を失い、もっと別の大きなものの一部になっていると感じる。
 その場における「客観性」が全てとなり「主観性(自分自身の目でみたものや、その判断)」が完全に失われる。つまり「自分の目で見たこと」ではなく「みんなが信じていること」(これが客観性の本質である)を真実だと判定するわけである。もちろんこれは、その場から離れた人間にとっては明らかに狂気であり、もちろん時間を置いた後の当人でさえも、それを認めることは多い。
「私はあの時狂っていたと思う」
 集団の中でおかしなことをしてしまった人は、正気に戻ったとき、困惑しながらそう語るのだ。


 では私たちの正気とは何であろうか。私には、こう思える。
 この、主観的狂気と客観的狂気という二つの狂気の中間こそが、正気なのである、と。

 正気であるというのはつまり、他者とのコミュニケーション、情報の交換が可能かどうかの程度で決まる、と私は考える。人と意見を交わすには(たとえ同意ができなくても構わない)ある程度の主観性と、ある程度の客観性が適度に混ざっていなくてはならない。
 コミュニケーションが「基本的に誰ともできない」ということが「狂気」であり、ほとんどの人は、主観か客観かどちらかの狂気に片足を突っ込んでいる。両足を突っ込んでいる人もいる。だから、相性の悪い人とはお互い正気であっても、話が通じないことがあるのである。そして「相手は狂っている」と感じてしまうのである。その実情はただ、相性が悪いだけ。
 実際のところ、熱狂している人は、他の熱狂している人以外の人とは会話が通じない。自分の世界が世界の全てだと思っている統合失調症患者と会話ができる人は、彼の世界が世界の全てであると同意を与える演技ができる人だけ。
 正気か狂気かという判断は、その対象が他者との交流が可能かどうか、ということである。

 言い方を変えれば、他者を想定してものを考えている程度こそが、正気の程度であり、その他者への理解が深ければ深いほど、確固とした正気であるとすることもできる。

 もっと具体的に言えば「この世界には自分の知らないことがたくさんある」という態度こそが、もっとも狂気から遠い態度であると私には思える。
 というのも、こういう態度であれば、相手の意見を「よく聞く」ということができるし「自分の頭でものを考える」ということでもできるからである。そして「相手に分かるように話す」ということも意識できる。
 結局のところ、正気の本質とは、そういうことなのである。
 他者を想定しつつ、自分を保つ。それこそが正気であり、それは右と左の狂気の間を丁寧に歩くということでもある。

 私たちが正気であり続けるのは当たり前のことではなく、平均台の上を歩き続けるような難しいことなのである。

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