なんで私の小説を読む人は少ないのか

 定期的に思う。随筆の方は、時々たくさんスキがつくときがある。正直、傾向は意味不明だし、分かりたくもないのだが、ひとつ納得がいかないことがある。

 私は随筆を書くときは肩を力を抜いて、雑に書いている。何を書いてもいい、と思って書いている。つまり、別に評価されようが評価されまいが、どうでもいいものとして書いている。
 対して、小説を描くときは、ある程度気合を入れて書いている。人に伝えたい感情があるから書いている。書かずにいられないから書いているし、書き切ったときは「あぁ私はそういう人間なのだ」という満足げな気分になる。

 私は私の書く小説が好きだし、優れていると思っている。人を感動させることができると思っているし、読まれる価値のあるものだと思っている。

 それなのに、note上では、私の書いた小説はほんの少しの人しか見に来てくれない。自分でも読み返していて「これすげぇなぁ」って思うのに、他の多くの人はそうは思わないようなのだ。


 正直、かなり不満。

 随筆なんてしょせん思考の整理に過ぎないし、私自身のためのものでしかない。誰かがそれを読んで何かに気づいたり、何かの悩みが解決することがあっても、それは私が意図してやったことじゃないし「おお、そりゃよかったね」としか思わない。

 物語は逆に、明確に、私が伝えたいものがそこにある。私にとって美しいものがそこにある。それなのに、人々はそれを読んでもなんとも思わないようだ。

 というか、ネットで小説を読もうとする人の層が、もはや暇つぶしとしてしか小説を読まない人なのかもしれない。つまり「面白いかどうか」「自分が楽しめるかどうか」という基準しか持っていないから、もう最初の何行か読んだだけで、見切りをつけてしまうのかもしれない。

 それか、私の書く作品はどれも重たくて、特定の人を傷つけるような内容であることも多いから、そういう意味でも、受け入れてもらえないのかもしれない。


 前に、編集業をやっている人が素人の書いた小説を読んでアドバイスをする、という企画をやっていて、私は自分の自信作をそこに送った。
 その人はあまり批判的な性格ではなかったけれど、それでも、思ってもいないような誉め言葉を言うようなタイプの人でもなかった。私以外の人の書いた作品についての感想やアドバイスも一応聞いていたから、それはよく分かった。
 その人は私の作品を「文章は読みやすくて親切。気持ちを伝えようとする真剣な気持ちがちゃんと伝わってくる。多くの人に読んでもらいたい」と言ってくれた。
 それを投稿しているサイトのページも紹介してもらったが、結局その作品にアクセスしてくれた人は数人しかいなかったし、グッドとかスキみたいなあれは、ひとつもつかなかった。

 どれだけ真面目に書いているかとか、それが美しいかとか、真剣であるかとか、そういうのを評価する人っていうのはこの時代にはほとんどいないのかもしれない、と思った。ろくに文章を読める人がこの時代には本当に少ないのではないかと……


 自分が一所懸命にやったことが評価されないことには慣れている。どれだけ真剣に取り組んでも、出来上がった成果物がくだらないものなら、皆がそれを鼻で笑ったとしても、私は仕方がないことだと受け入れられる。
 でも自分が好きで、美しいと思っているものを他の人がどうでもいいと思っているという事実は、受け入れがたい。それは、私がこの先どれだけ苦労をして、それを磨き上げたとしても、結局彼らには届かないものであるという絶望的な予感を生じさせるから。

 私は私が美しいと思ったもの、私が面白いと思ったものしか書けない。そして、この時代の人々が「面白い」「美しい」と思うものは、それとは異なっている。

 あぁくだらない。どうしてこんなどうでもいいことで悩んでしまうのだろう。

 結局は自分が期待していたような反応が周囲から得られないから、それに不満を抱いているだけじゃないか。


 自分がなぜ今更こんな文章を書いているか、私はその理由を知っている。私が今、取り組んでいる作品があまりにも重たいからだ。

 どの程度の長さの作品にするか決めず、まず自分が何を書きたいのか考えた。すぐに決まった。どういうストーリーにするかも、仮にではあるが、大まかには決まった。今まで書いた中で一番長い作品になることだけは確からしい。十二月いっぱいかけてプロットと設定をしっかり練って、来年になってから本文を書き始めよう。そう決めた。
 きっと大仕事になる。来年最初の仕事だ。三か月……半年……下手すると、一年かけてもちゃんと出来上がらないかもしれない。
 私が今まで書いた作品の中で一番長いのは二百枚くらいのヤツで、だいたい三か月くらいかけて書いた。それとは別に、百五十枚くらいの作品に、半年ほど時間をかけたこともある。何回も最初から書き直した結果、それくらい時間がかかったのだ。
 ひとつの作品に集中するのは苦しいことだ。その作品のことで頭がいっぱいになると、吐きそうになる。

 考えるだけで苦しい、ということが、この世にはたくさんある。そういうものをこそ、書かなければならない。
 私は自分がそれを書けることを知っているし、それが自分の才能だということも知っている。他にできることがない、やることがない、という私の空虚さが、私を導くのだ。


 体と心を壊すほど真剣になって、全力を尽くして、己自身と己の現実に向き合って、そうやって作った作品が、誰からも見向きもされないかもしれない。いや、きっと、この時代の多くの人はそれをまともに受け取ることができないであろうことは、安易に想像されるし、その方が、流れとして自然だ。
 私が真剣になれること。私がそれに、全力で取り組めること。本当は、私はそこで自分の価値を認めてもらいたいのだ。
 だがそれがおそらく叶わないであろうという推測が、私を苦しめる。

「だったら逆に、彼らでも評価できるような作品に心血を注げばいいじゃないか」
 そういう問いも、私の中では生じてくる。でも分かっているのだ。私はそれで評価されたって喜べないし、そもそも私には書くべきものがはっきりと見えているのに、それを自分の欲望のために穢すのは、罪深いことだと私自身はっきりと自覚しているのだ。
 人にはどうしても選べないことがある。

 私は、誰からも評価されないであろう作品に、私の貴重な労力と時間を捧げる。それはもうすでに決定していることなのだが、私の心は、まだそれに納得しきっていないのだ。

 だから、迷う。だから、このように、人々の見る目のなさに文句を言う。そんなのは、書き上げたあと、人に読んでもらえないことに不満を持って、それから言えばいいことなのに。
 「どうして私がこんなに真剣に、命を懸けて書いた作品を、誰も評価しないのだろう!」と、そう嘆くのは、実際に評価されなかったその時にすればいいことなのに。

 意味もなく、先んじようとするのは私の悪い癖だ。もっとゆっくり自分の肉体のペースで生きればいいのに、私の心はいつも私の肉体よりも先に自分の道を歩もうとする。


 書くべきものがあるというのは、幸せなことだ。それが自分をどれだけ苦しめ、悩ませたとしても。

 しかし……しかし。それが分かっていたところで、私の苦しみが消えるわけではない。私は人からの評価というものを全く気にせずいられる人間でないということが、私を苦しめるのだ。
 私は、ほとんどの人が理解できないであろうもののために、全力を尽くす。それ自体が目的なのだ。そういうことができるということが、ひとつの高貴さであり、価値あるものを産み出すひとつの条件なのだ。
 自分のためにでも、読者のためにでもなく、その作品自体のために、その作品を書く。私はそういうことができる人間だから、そうしなくてはならないのだ。

 それに関しては、超人的であらねばならない。私利私欲を滅するのではなく、その私利私欲が、全てその作品を対象とするようでなくてはならない。私は私自身や私の隣人たちよりも、その作品のことを強く愛さねばならない。

 私にできるのだろうか? 不安になる。いつだって不安だ。私はそんな強い人間ではないし、立派な人間でもない。とても怠惰な人間だ。だが、一瞬の積み重ねなら、きっとできる。その瞬間を、その作品のためだけに捧げる。それを、日々積み重ねれば、必ず、その作品が欲したその作品の姿が描き出される。
 私の頭の中の、ある欲望を持った作品が、その欲望を完成させる。そのあと私がどうなるかなんて、もはやどうでもいいことだ。報われるかどうかなんていうのは、どうでもいいことだ。
 いや、生むということ自体がひとつの報いなのだ。生まれたい、という欲望に対し、生むという行動によって、報いるのだ。
 私という人間も、きっとそういう風にして生まれてきたのだから。

 私にしか作れないものがあるのなら、それが私にとっての価値なのだ。他の人間がそれを大切にしてくれないことは、確かに私を不安にさせるが、それによって私にとっての作品の価値が損なわれることはない。

 あぁ。分かっていても不快なのだ。吐き気がするのだ。

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