「論理的」という言葉が気持ち悪い

論理は基本的に先に定義から入る。定義をしてから、結論を導いていく。その定義自体を疑う場合は、その定義の土台にあるものを定義として取り扱わなくてはならない。

論理的な誤りとは自己矛盾と範囲の設定ミス、および単語や表現の解釈のズレ等……まぁいくらでもその原因となるものはある。
そもそも土台自体が歪んだものであるならば、どれだけ論理的に正しくても、そこから導き出された答えはほとんど虚構的な印象を抱かせてしまう。たとえば天動説がそのいい例だ。あの体系は非常に複雑かつ奇妙で、いかに矛盾せずに整合性のとれた地球中心の宇宙モデルが作れるか、ということに多くの優秀な人間がその人生を費やした。あれは確かに「論理的に」組み立てられていたが、そもそもの定義、土台自体の設定に致命的な欠陥があったので、必然的にひっくり返された。

よく目的を先に設定して論理をそれに従わせる、というやり方を批判する人がいる。理論武装もそれに近い。それは実のところ、論理の役割としては正しい。論理は誤りを見つける機能であって、正しさを見つける機能ではないのだから、自分の意見を他人に正しいものとして主張する場合、後付けの論理を細かく組み立てるのは、ある意味では「論理的」と言って差し支えないように思う。
ただ先ほども言ったように、論理というのは、矛盾や範囲や表現のミス等に関する高度なチェック機能であるため、自分自身の持論や権威に対して批判の矛先を向け、それを突き崩すとき、もっとも役に立つ。結局論理は、否定から入るとき、もっとも活躍するのだ。
どれだけ否定しようとしても、矛盾点や攻撃する要素が見つからないとき、論理はしぶしぶその命題の正しさを認める。証明というものも、ある意味ではその無矛盾性をはっきりと示すということであり、自分の無謬性を主張している論理の姿ともいえる。

論理自体は正しさの証拠にはならない。実のところ「誤りがない」=「正しい」という定式自体が、本来成り立つものではない。

たとえば「私は先ほどサイコロを百回投げて、全て一が出た。これは論理的に矛盾しているか」という問いに対して「矛盾している」と断ずることはできない。それはごく微小の確立ではあるが、たしかに起こりうることで、論理的には一切の誤りがない。
私がそう主張した場合、それはすでに「信じるかどうか」の問題にすり替わっている。それ自体がありうることは、誰でもわかる。だが発言自体が正しいかどうかは、何とも言えない。私が実際にサイコロを百回投げたかどうか、全て一が出たかどうか、確かめるすべはないが、確かめるすべがないからこそ、それが実際にそうであったとも、そうでなかったとも、断ずることはできない。
ただ「ごく微小の確立であり、それが実際に行われたとは考えづらい」等の予測を建てることは可能ではあるし、「一定確率以下の現象は起こりえないものとして取り扱う」という土台をもとにまた別の論理を組み立てるならば、その論理との矛盾を指摘することによって、私の「サイコロ百回」が誤りであることを示すこともできるかもしれない。
いずれにしろ、そこには絶対的な答えなどどこにもなく、人間の不安定な意志と直感の絡むぼやっとした「思い付きの空間」に「論理という壁」を好きなように設置して好きなように取り扱っているだけである。

論理はあくまで無矛盾性しか意味していない。土台が致命的な欠陥を持っていたら、そこから導き出される結論も、致命的な欠陥を持っていると考える方が自然であるし、致命的な欠陥を持っていない土台があるかと問われても、私にはよく分からない。

数学は土台を先に意識的に導入する。導入している以上、それは覆されるものではないから(覆してはならないものだから)、論理はまっすぐと、気持ちよく進んでいく。
科学は仮説と実験という、現実に基づいたチェック機能を有しているため、現実と論理の間の矛盾性を許さない。
科学は論理的である、という言葉は間違っていない。ただ論理的であるから科学が正しくて役に立つのではなくて、現実との間に整合性があるか確かめ続けるというやり方をしているから、そうであるのだ。言語と現実を繰り返し結びつけ続けているからこそ、科学は科学なのだ。

論理はあくまで無矛盾性を示しているに過ぎない。無矛盾であることが、それそのまま正しさを示しているわけではない。

と言いたいところなんだけども。

あーだり。たとえ矛盾してても、概念と概念、単語と単語が繋がってたらそれを「論理」と呼ぶ人間が多すぎて、気分が悪い。それならあらゆる言語的表現が論理であり、論理でない意味などこの世に存在しないから、そもそも論理という単語の意義は失われるのではないか。私にはそう思えてならない。
あらゆる「非論理」が「論理の内側」にあるということ自体が、論理の根本的な矛盾であるのに、それを許容して「論理は矛盾していても論理と呼ぶことができる」というのは、私自身の言語的感覚として、非常に気分が悪い。

AでないものはAではない。という論理のもっとも根本的な部分に反するものを許して、それも論理の一部だと主張するのは、さすがに無理がある。

そもそも最初の「表現の設定ミス」にひっかかっているのだ。
「論理とはものごとの筋道、繋がりである」という意味と「論理とは矛盾しない体系である」という意味は、まったく別の意味であるから、別の単語として表記した方が適切だ。
これらを混同して捉えるから、論理という言葉は気持ち悪くなるのだ。ほんっとーに、論理的という言葉が変なタイミングで出てくるたびに私はイラッとする。

私が感情を土台に適当にしゃべってるだけなのに「論理的なんですね」とか言われても、私は困る。私は意識して、自分が矛盾したことを言ってもいいようなノリで喋ってるのに、それを論理とか何だとか言われて、私がそれに同意してしまったら、私自身が論理的にものを考えられない人間であるかのように見えてしまうじゃないか。論理に矛盾を許す人間、論理に矛盾があっても、それに気づかず同意を与える人間だと思われてしまうじゃないか。
あ~~~~気分わりぃ~~~~

日本人は論理的な感覚がなさ過ぎて、論理じゃないものを論理と定義してしまった。そして論理は空を飛び大気を超えて星になった。そして今地球の周りをまわっている。
「お母さん。あのお空にキラキラ光ってるのは何?」
「あれはね、論理様って言うんだよ」
「へー。論理様ってすごいんだね!」


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