衰退すること・学者が世界を支配すること

 栄枯盛衰という言葉がある。諸行無常という言葉もある。

 日本という国は盛りを過ぎたように思われる。この後どうなるか、先例となっているのはヨーロッパだ。かつて他地域に対してあらゆる点で勝る力を持っていたが、アメリカに負け、ロシアにも負け、第二次世界大戦後は日本にも負け、対抗するためにEUを作るも、その場その場の問題に対処することで精一杯。その後中国にも負け、インドにも負け……
 日本もあぁなる、というか、もうなっている。今の日本はすでにヨーロッパ諸国の境遇によく似ている。

 たとえ衰退しても、それで決定的に貧しくなったり、悲惨なことになったり、生きていけなくなったりすることはない。たとえば今のスペインを見てみるといい。なかなかにひどい状態だが、救いようがないというほどではない。
 日本と同じように少子高齢化に苦しんでおり、財政問題も悲惨。世代間の経済格差も埋まらない。インフレの傾向にあるも、それは景気がよくなっているからではなく、単に情勢が不安定だからそうなっているだけ。給料が上がっているわけではないのに、ものの値段が高くなって生活が苦しくなっているだけ。
 コロナでひどいことになっているのは言うまでもない。

 まぁそれでも、人々の生活は、それなりの感じでそこにある。たとえ借金があっても、食べるものと住むところ、そして仕事があるなら、まぁ何とかやっていける。

 それに関しては、日本も同じだ。個々人の生活は、楽観的に考えた方がいい。というか、考えるしかない。その場その場で、自分自身と身近な人たちのためにできることをやるしかないのだ。
 国のことは、自分のことが済んでから、だ。


 今後の現実的な問題について。

 本格的に国が貧しくなると、真っ先に削られるのは社会福祉だし、それはもはや仕方のない部分がある。その時はそれぞれが、何とか働いて稼ぐしかないし、そうやって皆が働き始めると、税収も増えて社会福祉を再整備する余力も生まれてくるかもしれない。
 いずれにしろ、都合のいい時代は終わって、これからも今まで通り人間の世の中はまぁまぁな感じで進んでいくと思う。

 私はただ恵まれた環境で育っただけで、もしそうでなかったら、必死になって勉強して働かなきゃいけなくなっていたことだろう。もしかしたら、それに疲れて死を選んでいたかもしれない。
 必死にならないと生きていけない、なんてことは実際にはないのだけれど、誰かを自分の代わりに働かせれば、必死にならずとも豊かな生活ができる、というのは本当のことだ。だから、誰かに対して「必死になって働かなければならない」と押し付けるのは、単純な利己主義に基づいて言えば、正しい。「国のためにたくさん税金を払え」というのも正しい。「会社をつぶさないためにたくさん働け」というのも正しい。たとえ自分自身がそうしていなかったとしても、単純な利己主義に基づけば、確かにそれは正しいのだ。

 人間の悲惨さの根源は、そういう原始的な利己主義にある、ということから目を逸らしてはいけないのだが、その原始的な利己主義をうまいこと利用したシステムである資本主義社会が、これまでの歴史上もっとも豊かかつ便利な時代を作り出したのも、本当のことだ。原始的な利己主義なくして、技術や経済の発展はなかった、というのも、見逃してはならない事実だ。
 しかしそれも別の言い方をすれば、過剰な利便性と過剰な豊かさであるし、それを管理するためにさらに手間と時間が必要になって、人々の生活はさらに忙しく、しかも単調になっていくというのも必然的だ。物質の豊かさに反比例して精神が貧しくなっていく、という解釈もできなくはない。

 ともあれ、すでに出来上がっているシステムをひっくり返したっていいことはないし、既存の社会からどのように変えることができるか考えることが現実的かつ効果的なことだろう、とは思う。しかし私たちは、自分たちが何を求めているかも分からなくなってしまっているくらいに、精神的に貧しいのではないか。金が欲しいのか? 場所が欲しいのか? 時間が欲しいのか? 勝利や栄誉? 国家の繁栄? 優しい家族? 頼りになる友達? それとも? 私たちは、健康的に欲望することすらできなくなりつつある。

 人間の精神、言い換えれば時代の精神はなんだかよく分からないことになっているが、何はともあれ、事実は事実だ。日本は必ず経済的な意味では衰退する。だが芸術や学問の世界では、ヨーロッパ諸国同様、先進的であり続けることができると思う。(皮肉なことだが、現代においてもっともすぐれた芸術作品は、大衆向けの娯楽作品だと思われる。それに一番多くの情熱と金が注がれている、というのがどうやら事実らしい……)

 ともあれ私は、ひとつ確かに感じることがある。学問の世界が、政治に与える影響が年々強くなっているということだ。コロナ騒動もそれに拍車をかけた。専門家の意見に、皆が耳を傾けるようになっている。これはとてもいい傾向だ。金を持っている人間ではなく、知的な意味で名誉を持っている人間が評価され、尊重されるのは正しいことだと私は思う。

 金持ちたちが学者に敬意を払い、彼らのために金を使うのであれば、世界は確実にマシになっていくと私は思う。
 私は学問の世界で生きていける人間ではないが、学問の世界で、学者らしく生きている人間のことを深く尊敬しているし、親近感も抱いている。
 かつて、そして今も、世界を動かしているのは時間に余裕のあるタイプの金持ちたちだが、いずれ学問の世界の人間が世界を動かすようになるのではないか、とも思うのだ。その方向に時代は流れているように私には感じられる。学問の世界の人間が既存権力を批判する姿も、よく見られるようになった。積極的に政治にかかわろうとしていく姿も見られるようになった。マスメディアの情報よりも、個人たる専門家やその集団が発信する情報に、人々が関心を抱くようにもなりつつある。

 民主主義に希望があるとすると、大多数の人間が金や権力ではなく、知性と名誉を重んじるようになることであると思う。もしそうなれば、もっとも知性と人間性が優れた人物が、他の人々の承認を得たうえで、優れた政治を行うことができる。
 それは古代の哲学者の願いでもあり、それはある意味では……学者という種族の、隠された野望なのかもしれない。学者が、つまりもっとも知性に優れた人間たちが、世界を支配するということ。

 それはきっと、学者の立場からは言えないことであると私は思う。たとえ思いついても、既存権力に配慮して黙するしかないし、そのような欲望を剥き出しにすることも、それは知的誠実さに欠けていると見られてしまう恐れがある。だから、そういう事は誰も言わない。
 でも私は、学者じゃないし、金持ちでもないし、学生でもないから、思い切ってそういうことを言ってみる。世界がひっくり返っても地位も名誉も手に入らない類の人間、それが私だから、自分の知性や感性に基づいて、無邪気にものを言う。
 学者の集団が世界を支配するようになればいい。いやもちろんそれは、彼らの独裁という意味ではなく、ただ彼らが最大の影響力を持っていて欲しい、ということだ。民族や国家、金を持った人間、人気のある人間などが最大の力を持っているよりは、知性の優れた人間たちが最大の力を持っている方が、ずっと、世界は清潔で、楽しくなると思う。


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