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「かぐや姫の物語」にまつわる考察【四】

*ネタバレあります。かぐや姫の物語の考察、第四夜。私見が多数ありますので、備忘録として読んで頂ければと思います(逃げ)尚、歌詞の引用は引用の体裁を守っていればOKなので則って載せております。
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輪廻の概念は映画のなかの歌に現れている。映画のなかで印象的な挿入歌。
これは、高畑監督の作詞作曲だ。
(作詞は脚本の坂口理子さんと共に)

「わらべ唄」
まわれまわれまわれよ
水車まわれ

まわってお日さん呼んでこい
まわってお日さん呼んでこい

鳥 虫 けもの 草 木 花
春 夏 秋 冬 連れてこい
春 夏 秋 冬 連れてこい

まわれまわれまわれよ
水車まわれ

まわってお日さん呼んでこい
まわってお日さん呼んでこい

鳥 虫 けもの 草 木 花
咲いて 実って 散ったとて
生まれて 育って 死んだとて

風が吹き 雨が降り 水車まわり
せんぐり いのちが よみがえる
せんぐり いのちが よみがえる


「天女の歌」
まわれめぐれ めぐれよ
遥かなときよ
めぐって心を呼び返せ
めぐって心を呼び返せ
鳥 虫 けもの
草 木 花
人の情けをはぐくみて
まつとしきかば今かへりこむ


映画序盤、まだ幼いかぐや姫は、村の子どもたちの歌う、上の「わらべ唄」を聞いて突然思い出したように一緒にうたいだし、遠くを見つめる。
そして涙が流れる。

幼なじみの捨丸が「どうして泣いてるんだ?」と聞く。かぐや姫は「…わかんない…」と答える。
この世に生まれ落ちたよるべなさ。覚えていないはずなのに懐かしさに胸が締めつけられる。

わらべ唄のラスト「せんぐり」という言葉は、小津安二郎の映画「小早川家の秋」のラストの火葬場のシーンで、農婦が煙突から上る煙を見て「若い人やったら可哀そうやなあ」と言うと夫は「けど、死んでも死んでも、後から後から、せんぐりせんぐり生まれてくるわ」と答える、その場面からとったという。

天女の歌は、月の世界で天女が口ずさんでいた歌。「まつとしきかばいまかえりこむ」の元歌は在原行平の「立ち別れいなばの山の峰に生ふるまつとしきかば今帰りこむ」。

現代語訳 :お別れして、因幡の国へ行く私ですが、因幡の稲羽山の峰に生えている松の木のように、私の帰りを待つと聞いたなら、すぐに 戻ってまいりましょう。


この歌は、いなくなった人や動物などが帰ってくることを願う【おまじない】でもあったとのこと。なぜこの歌がおまじないへと変遷したか、も深掘りしたいところだが一旦置いておく。

ただ、この歌の作者の在原行平は「伊勢物語」の在原業平の異母兄弟。共に平城天皇の孫。在原業平は、よく惟高親王の家に行っていたそうだ。
惟高親王は、小野守とも言われる。そして伝説では、木地師の祖とも言われる。かぐや姫の幼なじみ、そしてかぐや姫がほのかに想いを寄せる捨て丸の一族が木地師だ。

木地師(きじし)は、轆轤(ろくろ)を用いて椀や盆等の木工品を加工、製造する職人。轆轤師とも呼ばれる。

木地師は良い木を求めて旅をするため定住しない。また、平家の落人をかくまったとの話もある。貴種、または追われるものを隠すシステムとしても山の民は機能していたのだろう。帝と捨丸、貴と俗は単純な対立関係ではないことを示している。めぐるいのちの前では、殊に異人であるかぐや姫の前では平等なのである。

鳥、虫、けもの、草木花。生まれて生きて、死んで糧になりまた生まれる。連続したいのちのなかで、切り離されているものはひとつとしてない。私たちはすべてを内包し内包され、螺旋を描く。

主題歌はもろに生まれ変わりを歌ったような「いのちの記憶」である。作詞作曲・唄、二階堂和美

あなたに触れた よろこびが
深く深く
このからだの端々に
しみこんでゆく

ずっと遠く
なにもわからなくなっても
たとえ このいのちが
終わる時か来ても

いまのすべては
過去のすべて必ず また会える
懐かしい場所で

あなたがくれたぬくもりが
深く深く
今 遥かなときを超え
充ち渡ってく

じっと心に
灯す情熱の炎も
そっと傷をさする
悲しみの淵にも

いまのすべては
未来の希望
必ず 覚えてる
懐かしい場所で

主題歌の二階堂和美さんは、現役僧侶という異色の肩書きを持つ広島のアーティスト。監督は二階堂さんに、「映画を見終わった方がフラストレーションを抱えるだろうから、それを歌で慰めてください」というようなことを言われました、と言っている。

この曲のサビでは「いまのすべては過去のすべて」であるとし、そのリフレインでは「いまのすべては未来の希望」と歌われる。この二節で、「いまのすべて」=「過去のすべて」=「未来の希望」という三段論法が成立する。そしてこの方程式は、冒頭と結末がひとつに溶け合う、すべての高畑作品にあてはまる。
(文藝別冊【高畑勲】143P)

生まれて死んではよみがえる。そして、何一つ消えはしない。たとえ忘れたとしても、あったことは決してなくならない。いのちに刻まれているからだ。

必ずしも一人から一人への生まれ変わりではない。前世を覚えている、というのはその記憶がある、ということ。人そのものでなくても良いのだ。例えば私は、遺伝子検査(ディスカバリーという検査)をしたところ、アフリカから中東、そしてバイカル湖のほとりからマンモスを追って日本に入ったというミトコンドリアだった。
そして一部は日本からさらに進んで、マヤやインカ、ネイティブアメリカンになったという。その全てのカタマりのなかで、前世は誰でもあり、全てなのだ。

遺伝子が全て覚えているとしたら、それはもう遺伝子がアカシックレコードである。

踏みしめた草の、狩ったマンモスの、戦った敵の、愛した人の、抱いた赤子の。泣いて叫んで笑って生きていた記憶。
その遺伝子の記憶をオンにする、しようとする、それが言霊であり神話であり物語なのではないか。「かぐや姫の物語」はポチッとオンにしたのだと思う。そして、そういう働きを持つ物語やおまじないや伝説を、幾重にも張り巡らせたのが日本語なのだと。

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かぐや姫を迎えにくるのは、もろに「阿弥陀如来来迎図」である。

来迎(らいごう、浄土教諸宗では、らいこう[注釈 1])とは、仏教において、念仏行者の臨終の際に阿弥陀三尊が25人の菩薩と共に白雲に乗ってその死者を迎えに来て極楽に引き取ること。その様子を描いた図様は来迎図(らいごうず/らいこうず)という。Wikipedia

ここで、如来は極楽往生しているが、観音や菩薩(天人)は六道輪廻から逃れていない。あえて六道に留まり、衆生を救うために。そして六道のなかで天道界にいる。

天道は天人が住まう世界である。天人は人間よりも優れた存在とされ、寿命は非常に長く、また苦しみも人間道に比べてほとんどないとされる。また、空を飛ぶことができ享楽のうちに生涯を過ごすといわれる。しかしながら煩悩から解き放たれておらず、仏教に出会うこともないため解脱も出来ない。天人が死を迎えるときは5つの変化が現れる。これを五衰(天人五衰)と称し、体が垢に塗れて悪臭を放ち、脇から汗が出て自分の居場所を好まなくなり、頭の上の花が萎む。天の中の最下級のものは三界のうち欲界に属し、中級のものは色界に属し、上級のものは無色界に属する。

なんか天人になっても辛いのか。でも高畑監督は、あの世の幸せなどどうでもいいようだ。この世で、いのちを全うする。この世が、極楽になればいい。だからこの世で、「いま、ここ」でいのちを輝かせるべきだ。そんな高畑監督の、強烈な生への全肯定が胸に迫るのだ。


そしてまだ不定期につづく。。。

お読み頂きありがとうございます!