【シャニマス 二次創作小説】浅倉透とタッグを組むモブアイドルの話


1


アッシュグレーの髪が顔にまとわりつく。お気に入りのウルフカットが今だけは鬱陶しい。息が切れ、肩が細かく上下する。ステージライトが容赦なく照りつけ、レーザー照明は暴れまわるように明滅している。意識に霧がかかり、現実感が失われていく。

点検のようなダンスだった。振りと立ち位置を思い出すことで手一杯。
ああ、また顔の左側が引き攣ってきた。
イヤモニから流れる音楽に、かつてかけられた言葉がオーバーラップする。

──ちょっとした勇気だよ。

燻っていた記憶が脳裏によぎる。
佐藤美月みづきは、邪念を振り払うようにターンをした。

まずい、ファンサ忘れてた。

はたと顔を上げると、アリーナを埋め尽くす青いサイリウムの光が見えた。まるで夜光虫が夜の海を染め上げ、漂っているようだ。
ふと気づくとサイリウムの狭間に顔が浮かんで見えた。

途端に心臓がきゅっと絞られる。

観客の視線が、余裕のない自分を冷徹に見透かしている気がした。気のせいだと頭では分かっている。自分を目当てに観に来た人なんて一握り。しかし体は一層こわばっていた。

視界の端には、悠然と舞う浅倉透が見える。汗ひとつかいていない彼女の横顔は、ぞっとするほど美しい。何回か一緒にレッスンをしていたのに、本番中でもつい見とれてしまう。

こんなに集中できていない本番は初めてだ。

ぜんぶ浅倉透のせい。

この涼しい太陽が、すべてを引き寄せて燃やし尽くしてしまう。



2


殺風景な会議室がぱっと華やいだ。渚と彩海あやみの甲高い声に、みおの呟きが混じる。

「嘘……」
「ほんとだってみんな、アリーナでライブ! 三万人だよ~」

マネージャーからの朗報を聞きながら、美月は椅子の背もたれに身を預けた。

冗談でしょ。確かに舞い上がる気持ちも分かる。でも三千人程度のキャパしか埋められない自分たちが、いきなり三万人超のアリーナだなんて。腕を組み、顔をしかめる。

──絶対に自分たちの実力じゃない。きっと何か事情がある。

佐藤美月は四人組アイドルユニットの「フュージョン」で活動している。メンバーそれぞれが異なるダンス経験を持つのが特徴だ。バレエ、ジャズ、ヒップホップ、そして美月のブレイクダンス。楽曲ごとに振付の趣向をがらりと変えるのが特徴だ。

バラバラな個性を「融合」したダンスユニットということで「フュージョン」と名づけられたが、言いにくいので美月はイマイチ好きになれない。

「ここまで頑張ってきて良かったねぇ……」

隣で泣きじゃくる彩海を見て、美月は鼻白んだ。練習で一番手を抜くくせに、よく泣けるものだ。彩海がライブ出演を努力の成果と受け止めている状況こそ冗談だと思いたかった。

「ちょっと彩海、落ち着いてよ」と声をかけつつ、他メンバーの様子を窺う。自分の感覚の正常さを確かめたかった。

リーダーの渚は腕を組んで満足そうに頷いている。愛娘が褒められている父親のようだ。彼女がこの違和感に気づくはずがない。

美月は前かがみになって、端に座る澪を見た。しっかり者の常識人、最後の頼みの綱だ。しかし彼女は期待に目を輝かせて口を半開きにしていた。そうだった。澪は四人のなかで一番おとなしいが、根は純粋なところがある。

こうなると自分で話を進めるほかない。

「マネージャー、それ見せてください」

テーブルの向こうに手を差し出し、紙の束を受け取った。企画書の表紙にでかでかと書かれている「アイドルフェス(仮)」。主旨をなぞっていくと、「トップアイドルから新人まで様々なアイドルが共演し化学反応を起こす」とある。

参加者一覧に確かに自分たちの名前があった。そのすぐ上に、同じ事務所の超売れっ子アイドルグループが鎮座している。

やっぱり。雲の上の先輩たちを切り札に、伸び悩むフュージョンを追加するよう交渉したわけか。美月はふうと息を吐いた。

「稼ぎ頭のバーターってとこね」

美月のモチベーション低下を察知して、マネージャーがフォローする。

「このライブはね、フュージョンがすごく持ち味を出せるから推したんだよ!」
「持ち味ねぇ……」

各方面への交渉がいかに大変だったかを熱弁するマネージャーの話を聞き流しながら、美月はパラパラと資料をめくる。
すると、渚の声が耳に突き刺さった。

「あー! 美月、浅倉透と踊るの!?いいなー!」

なんのことかとセットリストを確認すると、確かにこう書いてあった。

シャッフルダンスパート 
出演者:浅倉透(ノクチル)、佐藤美月(フュージョン)

美月はまるで状況が飲み込めなかった。

しかし、腹の底から黒く濁った感情がせり上がってくることだけは確かに感じていた。



3


「ねえ、事務所ってあれだよね?」
「うん…… 窓に283って書いてあるし……」

美月とマネージャーは顔を見合わせる。道路の向こう側で、地味なたたずまいの建物が街路樹に隠れていた。地図アプリのピンは確かにあの建物に刺さっている。二人はライブの打ち合わせのために283プロに訪れることになった。
普通の家みたい。渋谷にある自分たちの所属事務所とは大違いだと、美月は面食らった。

建物の二階に上がり、マネージャーがドアのインターホンを押す。男性の声がして、用件を伝えるとドアが開いた。
「ご足労をおかけしてすみません。本日はよろしくお願いします」

スーツ姿の男性が二人を迎える。この人がメールにあったプロデューサーさんらしい。モデルのような高身長に精悍な顔つき。この事務所は女性アイドルしかいないはずだけど、大丈夫なのかな、色々。

美月はもごもごと挨拶をして、男の人の力強い視線を外すように俯いて中に入る。玄関は普通の家みたいだ。左手に木目調のシューズボックスがあり、美月の自宅とほとんど変わらない。美月は用意されていたスリッパに履き替えた。

今日は打ち合わせというより顔合わせみたいなものだから気楽にと、あらかじめマネージャーから聞いている。今後283プロのスタジオでレッスンをすることは決まっていて、今日話し合うのはスケジュール調整だけ。メインは演者同士の挨拶、と。

マネージャーと男の人が何か話をしながら廊下を先に進む。美月はとぼとぼついていく。

美月を安心させるための言葉は、かえってプレッシャーだった。基本的に共演者とは仕事として話す方が楽だ。

共演者はよりによって相手は浅倉透。生放送のライブで童謡を歌って放送事故を起こしたグループの主犯格だ。その後しばらく干されていたようだが、最近はテレビや雑誌で見かけるようになった。奔放な「エモさ」が若い世代に共感され、人気が出始めている。

美月は好きになれなかった。浅倉透にプロ意識が微塵もないのも、その自然体が世の中に受け入れられているのも。

「本日の打ち合わせはこちらで行います」

男の人がつきあたりのドアを開けると、リビングルームのような部屋だった。少し雑多で、なんだかあたたかい。
美月が拍子抜けしたのも束の間、その中央のソファに座る人影に視線が吸い寄せられた。

息を呑んだ。

浅倉透はソファでのけぞるように眠っていた。春の穏やかな陽に当たっているが、彼女自身が光を放っているようにも見える。今にも消えてしまいそうなほど淡い。それでいて目を離せなくなる存在感。あまりに自然で、不自然なほど美しい。

「と、透! 打ち合わせがあるって言ったじゃないか!」

浅倉透がおもむろに目を開き、背すじを伸ばす。慌てる素振りはまるでない。美月に気づいた透は、意外そうな顔をした。

「あれ、また入ったんだ。新人アイドル」

こっちは先輩だぞ。
それほど有名になりたいとは思わないものの、なかなかどうしてむっとする。

今回のライブ、絶対に負けるわけにはいかない。



4


六月のレッスン室の空気はじっとりと重くよどんでいた。髪が湿気でうねり、汗に濡れた頬に張り付く。美月は壁を背に座り、長いため息を吐いた。

汗ばんだ浅倉透が片膝をついて座り込んでいる。浅倉透でも汗をかくんだな、と思いながら美月はペットボトルの水を飲んだ。

「佐藤さんすごいね、ダンス。グー」

佐藤さん。エゴサすら苦労するフルネームの、救いようがないほど普通な方。苗字で呼ばれるたびに美月は心がざらついた。濡れた手についた砂のように、自分の平凡さがまとわりついてくる。

下の名前で呼ぶよう何度か促したがもう諦めた。「先輩だから」と言って譲らない。その割に敬語は使わないというバランス感覚はちょっと理解できそうにないが、もうどうだっていい。

浅倉透のサムズアップに、美月は無言のまま親指を立てた。休憩の終了を告げるアラームが鳴った。

今回のライブで二人が担当するパートは挑戦的な試みだった。まず、四つのアイドルグループから一人ずつ選抜しスペシャルユニットを構成。最初は四人でパフォーマンスをするが、二番のBメロが終わった途端にユニットを分割。ボーカル担当の二名がメインステージに残り、美月と浅倉透がセンターステージに駆けてゆく。
そして二人で曲が終わるまでの二分強、ダンスのみのパフォーマンス。

何より挑戦的なのはダンスの内容だ。原曲は別のアイドルグループのものだが、テンポが速い。しかも楽曲はライブ用にアレンジされており、間奏ダンスブレイクの時間が長く取られているためかなりのスタミナが要求される。

そして何より高いハードルは、フュージョンとノクチルの要素を所々に織り交ぜた複雑な振付。前半はノクチルらしい流れるようなダンスで、後半はフュージョンの激しいブレイクダンス。どうりで一曲分にしてはレッスン日程が長いわけだ。

「佐藤さん、動きも表情も硬いよ! もっと力抜いて!」

トレーナーの指示が飛ぶ。ノクチルパート。一見ゆったりとしているが、思った以上にせわしない独特の動きに美月は戸惑っていた。指示とは裏腹に体が緊張してしまう。汗が背中を伝っていた。

浅倉透とのレッスンは「不可解」の一言に尽きる。
ある程度ダンスをやっていれば、一曲分の振りは一日で大方覚えるものだ。振り入れがスタートで、そこからのブラッシュアップに時間のほとんどを割く。
ただ彼女は普通ではなかった。

まず、振り入れが長い。振りを入れてから一週間経っても、まるっきり覚えていない箇所があったくらいだ。レッスンの序盤はトレーナーからの注意はほとんど彼女に向けられていた。

しかし、覚えたときにはもうほとんど完成形に近い。浅倉透には、表現として要求されているものを感じ取る直感があった。未経験のブレイクダンスさえ例外ではなく、いつの間にかフュージョンパートを自然に踊る彼女に美月は驚いた。

「ダンス経験者?」

美月は祈るように訊いた。そうでもないと自分の立つ瀬がない。
え、違うけど、と間の抜けた声が返り、美月は膝の力が抜けてしまいそうになるのを堪える。
曇りのない目で浅倉透が言葉をつなぐ。

「でもさ、思ったんだ。できるかも、って」

美月はこぶしを強く握った。
思うだけでできるものか。叫びたいほどの衝動が喉を駆け上がり、必死に押し込む。

床から窓の外へと目を向けると、今日も雨が降っていた。
美月は、じっとりと噴き出してくる汗を梅雨のせいにしていた。



5


美月はロングシートに座り、向かい側の窓から差し込む西日に目を細めていた。

神奈川にある自宅への帰路。283プロのある西東京からの往復も、気づけば今日で最後だ。全体を通して問題はない。トレーナーの指導を受けた箇所は修正した。それでも美月は、胸に渦巻く黒いもやを拭いきれずにいた。

その正体には気づいていた。それは浅倉透の隣に立たされる恐怖だ。彼女には、人の目を引きつけ場を支配する才能がある。練習では決して埋まらない深淵が、彼女と自分の間に口を開けていた。足がすくんでしまうほど深く、広い隔たりだった。

列車が橋を渡る。車体に入った黄金色こがねいろのラインが夕暮れに映えた。

来週がライブ本番だと受け入れられない。美月はスマホを触る気も起きず、車窓をぼんやりと眺めていた。いつの間にか住宅街に入り、夕焼けに照らされた家々が流れ去っていく。

美月は膝の上に抱えたリュックに顔をうずめると、急にかつての鬱屈した日々が蘇った。

あの頃も背中を丸めて電車に乗っていたっけ。


美月は中学生の頃にブレイクダンス教室に通い始めた。別の教室でダンスにのめり込んでいた彼女は、さらに激しいムーブに自分の可能性を求めた。

レッスン室に入った途端に感じる熱気。ウォーミングアップで火照る体。思う存分手足を伸ばして、とにかく速く動く。体力が底をつくまで踊り狂う喜びに充実感を覚えた。世界を反転させる空中技だってできるようになる。将来への期待で胸をときめかせた。

しかし美月の爛々らんらんとした目が曇るのに時間はかからなかった。同じ教室の同級生である陽菜はるなに、全ての可能性を目の前で見せつけられたからだ。

陽菜のムーブには迷いがなかった。自信が挑戦を後押しし、成功がさらなる自信を生み出す。気づけば彼女は途方もないレベルに達していた。宙返りなどのアクロバット技の練習が許可されていたのは教室で彼女だけだった。

一方美月は地面に這いつくばるような技ばかり上達していた。四つん這いのまま足を素早く入れ替える「フットワーク」に、斜め三点倒立の「チェアー」。陽菜の華やかな空中技が羨ましかった。半ば彼女の専用スペースとなっていた教室の隅のマットを、地に根を張るようなチェアーで頭を床に押し付けながら眺めていた。

美月は陽菜が練習する場所を「月面」と呼んでいた。彼女だけが重力の支配から逃れられる領域だからだ。

一度、陽菜に空中技のコツを訊いたことがあった。

彼女は得意技の「ゲイナー」を練習していた。体の後ろで勢いを溜めた右脚を天高く蹴り上げてバク宙をする大技。蹴り上げた足先が弧を描き、軸脚が遅れてついてくるのがかっこよかった。 

美月は、陽菜の練習が一段落つくと訊いた。
空中で一回転するなんて怖くないの。
息を整え、陽菜が口を開く。

「ちょっとした勇気だよ」

美月は肩透かしを食って言葉に詰まった。
本当にそうなのか。
そんな些細なきっかけだけで、天才に肩を並べられるのか。

──結局、陽菜が言った「ちょっと」を美月は越えられなかった。

その翌日から、美月は個人練習を始めた。レッスンが終わった後に体育館の倉庫の奥に向かう。重い扉を開けるとかび臭い空気が出迎えた。種々のマットのほかに跳び箱や平均台などが押し込められ、何も動かない。何十年も時が止まっているかと思うほどに澱んだ空間。
それでも、暗くひんやりとした秘密の特訓場が、美月は嫌いではなかった。

美月はそこでひっそりとゲイナーの練習をした。動画サイトで見た動きを試すため、平積みの体操マットから走高跳用の分厚いマットに飛び込んでいく日々。
初めは回転が足りずにうつ伏せで着地していたが、一か月もすればぐるりと回って足で立てるようになっていた。ゲイナーもどきチートゲイナーではあるが、素人目には宙返りと変わらない。これが空中の感覚なのか。薄暗い倉庫の片隅で美月は、興奮が胸を突き破って飛び出そうになるのを抑え込んでいた。

ある日陽菜が休憩している隙に、美月は「月面」に立った。厚さ六センチの体操用マットは、足に確かな反発を伝える。しかし足で着地できるならマットの厚さは関係ない。

それなのに。
美月は恐々こわごわと足元に目を落とした。天へ蹴り上げるために後ろに引いた脚がまったく上がらない。全身が急激に重みを増したようだった。呼吸が浅くなる。

「美月、どうしたの?」

美月は、ひっ、と鋭く息を吸い、肩をすくめた。陽菜が美月の顔を覗き込むようにして心配している。ちょっと来てみただけ、と美月はごまかし、領土をあるじに譲った。陽菜は少し怪訝そうにしていたが、やがて「月面」に立ち平然とゲイナーの動作にとりかかった。腕を振り絞り、右脚が蹴り出される。

陽菜が跳ぶと、重力はたちまち1/6になった。



6


複雑な笑顔。

チャペルのプロモーション動画に映る浅倉透に真っ先に抱いた感想だった。逆光の中、オフホワイトのウェディングドレスを後ろ手に持った彼女がこちらを振り返っている。

自宅で夕飯を食べ終えた後、美月の母がタブレット端末を差し出し美月に見せた映像。女性雑誌編集者の母が、次号のブライダル特集の資料収集で見つけたものだった。二人はダイニングテーブルのタブレットを覗き込んでいた。

「この子、ほんとに綺麗ね〜……」
母が嘆息交じりに呟く。

浅倉透の表情は、これまでの人生で見たことがない笑顔だった。
口元はリラックスしており白い歯を覗かせる。しかし少しだけ細められた目元に一瞬差し込んだかげりを美月は見逃さなかった。晴れやかでありながら、どこか寂しさを孕んだような。

だから引き込まれてしまうのか。美月の頭の中でパズルのピースが埋まってゆく。

アイドルが芸能界で長く生き残る鉄則は、瞬間的に印象を残すことだ。元気キャラはいつも笑顔で明るく振る舞い、お笑い系なら常におどける。分かりやすくするため、余分な情報を切り捨て、速く意図を伝える。

しかし、一瞬で与えた印象は一瞬で消えてゆく。一方でプロモ動画の浅倉透のたたずまいには「迷い」が感じられた。多くの感情が消化されないまま入り混じり、何を訴求しようとしているか中々見えない。

しかしそれは、逆説的に人間の複雑さを誠実に体現していた。
虚構に決してへつらうことのない気高さが、美月には眩しかった。

「私、次のライブでこの子と一緒に踊るんだ」
独り言のようにぽつりと言うと、母はタブレットから顔を上げた。

「ほんとに⁉ 美月すごいじゃない!」
今の「すごい」は誰に向けた言葉なのだろう。月の明るさを褒めたところで、それは月を照らす太陽を褒めたことに他ならない。

美月はタブレットに目を落としたまま曖昧な返事をした。
画面に映る浅倉透の笑みが、美月を捕らえて離さなかった。



7


ライブ当日は嵐のような忙しさだった。メイクに衣装合わせ、スケジュールや立ち位置の確認。プログラムの複雑さがいつもとは段違いだ。美月は、これが芸能人か、と思った。

今まで経験したこともない大舞台ともなると、バックヤードも大したものだ。通路は巨大で、待機場所やメイクルームも複数ある。多くのスタッフが小走りで行き交い、無線で話す声があちこちで聞こえていた。

遠くで別のアイドルがマイク付きカメラを向けられ、何やらハイテンションでコメントをしていた。美月はややあって得心した。ライブブルーレイの特典によくある舞台裏映像だ。肩に力が入り、身が引き締まる。もう本番は始まっているのだ。

フュージョンとしての出番を直前に迎え、控室で準備をする。会話らしい会話はなく、あるのは澪や彩海の譫言うわごとだけだった。美月は二人の緊張を宥めているうちに、準備時間を終えた。本番前の集合時間だ。魂の抜けた顔で虚空を見つめていた渚の手を取り、ステージ袖に連れ立った。


どこか上の空でステージに上がり、いつものイントロを聞いていた。現実感も湧かないほどの会場の広さが、逆に緊張感を和らげた。
曲が始まれば普段の会場と同じ。楽曲は何度も披露した代表曲。あれほど緊張していた他の三人も、パフォーマンスは申し分ない。美月は、案外いつも通りだな、と冷静だった。

ただ、ラスサビ前で会場が暗くなった途端、美月は不覚にも胸がときめいた。四色のサイリウムがプラネタリウムのようにきらめいてアリーナを埋め尽くす。眼下に広がる満点の星空に心が奪われ、一瞬だけすべてを忘れてしまった。
そしていつの間にか、煌々と光を放つウルトラオレンジのともしびが広がっていた。魂が燃えている。血潮が滾るほどの熱をぶつけられているんだ。

安定感のある美月の歌声は少しだけ震えていた。



8


ステージ袖はいつも暗く、静かだ。実際は照明がついており、ステージの音響だってうるさい。しかし、舞台で味わう感情の激流が感覚を狂わせる。

美月はステージ脇の待機所で振りの確認をしていた。シャッフルパートの出番が次の次に迫る。集中はできていない。そわそわと浮足立って、じっとしていられなかっただけだ。

すると、向こうから二人組が歩いてくるのが見えた。

朗らかに微笑む浅倉透。隣を歩く女性アイドルは、かなり落ち着き払っている。あきれたように目を細めて話を聞いているが、少しだけ上がった口角が長年の付き合いを感じさせた。

ノクチルのメンバーだということは美月にも分かった。
そこでふと疑問が浮かんだ。
どんな気持ちなんだろう、アイドルとして浅倉透の隣に立つって。
それどころか、ノクチルのメンバーは幼馴染同士だから、子供の頃から……

浅倉透が美月に気づき、眉を上げる。すると隣の人に何かを話しながら近寄ってきた。気まずい間合いに、美月は振りの確認をやめていいものか迷い、気づかないふりをしながら中途半端に確認を続けることにした。

あの、と低い声が聞こえ、足を止め振り向く。
「ノクチルの樋口円香です。浅倉がお世話になってます」

浅倉透が遅れて会釈をし、美月も慌てて頭を下げて挨拶を返す。
顔を上げると、凍てつくような緋色の眼に貫かれて全身が強張こわばった。

試されている。そう直感した。

──浅倉透の隣に立つ覚悟があるのか。

そう思われているだなんて、考え過ぎだろうか。

「あー、もう次の次じゃん、うちらの出番。どこいくんだっけ」
「ほ、ほら、私たちはステージ脇のB2集合だってば。それでは樋口さん、失礼します」

いつも通り間の抜けた浅倉透を連れ出すのを口実に、逃げるように樋口円香と別れた。

美月は小走りしながら、背すじをぶるりと震わせた。



9


照明の消えたステージ上、美月は立ち位置につく。視界に広がる観客席は、夜の海のような鉛色を呈している。

美月は目を逸らすように横を向いた。メインステージいっぱいに選抜メンバー四人が展開されている。隣の立ち位置の浅倉透が、遥か遠く見えた。

〈立ち位置オッケーです〉

イヤモニに流れるスタッフの声にびくりとした。ややあって、美月はヘッドセットマイクの位置を調整する。位置がしっくりこない。

会場は明らかに暑かった。むわっとした熱気に全身を包まれている。会場は、さながら熾火おきびのように熱を孕みながらも静まり返っている。

美月たちはシャッフルパートの三組目。演者と曲目の意外な組み合わせの連続にファンの期待が高まり、はち切れんばかりのエネルギーが会場を満たしていた。

しかし美月の目の前には、ただ暗く広いアリーナがあるだけだった。

〈セッティング完了しました〉

今から本番なのかと驚いてしまう。練習期間をすっ飛ばして今ここに立っているみたいだ。こんな気持ちで本番を迎えるのはデビューのとき以来だろうか。

心臓が早鐘を打つ。
深呼吸をすると、極寒のなかで息を吐くような途切れ途切れに長い溜息が漏れた。

〈カウント入ります〉

結局自分は、このシャッフルパートから何を得たのだろう。他のアイドルとの「化学反応」とは何だったのか。美月はヘッドセットマイクを気にしながら考える。

浅倉透は、ブレイクダンスを取り入れてさらなる飛躍をしたように見えた。自分の中にある未知との邂逅かいこうたかぶっているようだった。

私はどうだ。ノクチルの優美な振りを模倣したものの、結局講師に褒めてもらえたことなんて一度もなかった。

いや、そんなことはどうだっていい。

目を逸らし続けた、胸に燻る願いを、かすれる声で呟く。

「浅倉透みたいに、自由でいたかった」



無機質なクリック音が唐突に思考を遮った。カウントが刻まれる。

あ、始まる。

どんな顔、すればいいんだっけ。



10


美月の上半身はアップテンポを刻んで上下していた。ビートに乗るためではなく、必死に肺の空気を入れ替えるために。

美月はセンターステージへの花道を走っているときに異変に気付いた。思えば、メインステージの時点で随分汗をかいていた。会場の熱気では説明のつかない異常な発汗としか言いようがない。

美月は、浅倉透と二人でセンターステージに立っている。ステージの四隅に設置された大砲のようなライトが容赦なく照りつける。
ボーカルはメインステージの二人に任せ、ダンスオンリーのパフォーマンス。歌と楽曲と歓声が混ざり合うなか、三万人の観客の視線が集中する。
アイドルにとってこれほど理想の舞台はない。

はずなのに。

ステップで浅倉透をリードしながら、美月の思考は過去に向かっていた。
前半のノクチルパートが頭を支配する。もっとできたはずだ。もっと優雅に、もっと余裕のある感じで。

でも、どこを直せばよかったかは分からない。理想のビジョンはあるが、具体的な動きは霧がかかって見えない。まるで、家族や友人の顔がはっきりと浮かぶのに正確な絵が描けないように。

体はひとりでにフットワークを繰り出していた。床についた片手を中心に、時計の十二個の文字盤を順に踏みながら走るイメージ。一周半まで来たら止まって体を捻る。また戻って円を描く。「六歩」から「CC」へのコンビネーションなんて何千回やったか分からない。

集中してもしなくても出来はいつもと同じ。笑えない皮肉だ。


ラストは立って浅倉透と向かい合い、互いにフリーで踊ることになっている。美月は得意の「インディアンステップ」を軸にフリーを組み立てた。激しく速い曲調にぴったりな高速の脚捌きでボルテージを最高潮に持っていく。そしてボーカルがロングトーンに入ったらラストの振りを合わせてフリーズ。構成には自信があった。

フロアから立ち上がった美月はステップに入る直前、ひらけた視界に鋭い違和感を覚えた。そして即座に戸惑いの正体に気づく。

床でフットワークを繰り出していた浅倉透の立ち上がりが遅れている。最終リハーサルゲネプロと違う。全身に緊張が走った。どうするつもり。息を呑み、眼下の浅倉透を見た。

彼女は背中側に右手をついてしゃがんでいた。あまりに平然としていて、一瞬だけ時間が止まったのかと思った。

なぜか急に、体育館倉庫の臭いが鼻を突いた。

浅倉透はしゃがんだまま左手を頭上に振り上げ、足のバネを解放した。後方に飛び、虹が架かるように体が反り返る。

爆ぜるような歓声がイヤモニを貫いた。

──マカコだ。バク転の代替オルタナティブ。かつて地面に拘束された美月の唯一の回転技。アクロバットができる希望と、宙を舞うことが叶わない絶望。マカコをするたびに味わった甘みと苦みを同時に感じる。

フュージョンパートは彼女の面目躍如のはずだった。しかし観客の視線は完全に浅倉透に向けられている。

彼女は何事もなかったかのように踊っている。

美月は体の芯がすっと冷えていくのを感じた。
短期間でムーブを習得する才能に加え、ダンスの流れを止めずに大技を差し込むセンス。何より本番一発勝負で試す度胸。

浅倉透は紛れもなく怪物だ。
会場を飲み込み、共演者を喰らい尽くす。

これまで幾度となくアイドルの背中を見送ってきた。新しいスターが生まれ、気づけば遥か先で見上げるほどの高さにいる。

浅倉透もきっと同じ。

階段を駆け上がって、きっとすぐに手が届かなくなるだろう。彼女は「踊り場」にとどまる器じゃない。


それでも。

──思ったんだ。できるかも、って

私だって。

美月は右脚を天高く振り上げた。体が宙に浮く。

『今すべてから自由になって 今すべてのものを祝福して────』

宙に浮かぶ美月が照明を遮り、浅倉透に影が落ちる。

「日食」の暗がりに、微笑が咲いていた。


(了)


原題:エクリプス・ダンスフロア
出典:『ノクチル反省文合同 いちもうだじん』



以下、反省文