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めいそう日記〜Day161:ななくりの湯と瞑想(後編)

1. 瞑想小咄〜ななくりの湯と瞑想(後編)

榊原温泉に身も心も癒された翌朝。朝の瞑想を済ませてから再び温泉に入りに行ってきた。夜と違って陽の光が温泉に差し込んでおり、とても清々しい。湯気立ち込める温泉に照明の灯りがほのぼのと灯っているのも幻想的で良いものだが、陽の光差し込む温泉もこれはこれで風情がある。

昨晩と同様、温泉に入ってから源泉に浸かる。それを数回繰り返していく。私はサウナーではないけれど、サウナ好きな人がサウナと水風呂を繰り返していくと「整った!」と言いたくなる気持ちが少し理解できた。温泉と源泉を交互に繰り返していくと、余計な思考が削ぎ落とされていくような感じがする。

何回目かの源泉に浸かっている時。目を閉じて瞑想をしていると、ふと頭の中に浮かんできた言葉がある。「一人じゃない」と。

ここのところカルチャー・ショック気味で少し沈んだ気持ちになっていた。でも、その言葉が浮かんできて、沈んだ気持ちがスーッと引いていったような気がした。

それと、思い出したのは「楽しくやろう」という言葉。仕事にせよ勉強にせよ、とにかく「一生懸命やらなければ、真剣にやらなければ。そうでなければサボっているということだ」という固定観念のようなものが、これまでの生き方の中でずーっと頭の中にあったな、ということをふと感じた。

一生懸命やること、真面目にやることはもちろん大切なことだとは思うけれど、それによって自分を痛めつけていたら心が病んでしまうだけだものな。

源泉に浸かりながら瞑想をしていると、そんなことをなんだか納得できたような気がした。

自然に身を任せて瞑想をしてみて、改めて瞑想の良さに気がついた。それは、自分の中から湧き出てくる言葉になる前の感覚や感情に気づくこと

今の世の中、何かと言葉にすることの重要性が説かれているけれども、本当に大切なことは言葉になる前の自分の感情や感覚なのではないだろうか。それをちゃんと自分でわかってから言葉にする。そうすると、ちゃんと自分の言葉になる。

そのプロセスが抜けてしまうと、誰かの言葉や誰かの思考が自分の言葉になってしまって、自分の本当の感情や感覚から離れた道を歩んでしまうような気がする。

情報がたくさんある世の中に生きていると、自分以外の人の痛みや苦しみを自分の痛みとして捉える人たちがたくさんいる。それはそれで大切なことなのかもしれない。しかし、一方で自分の感覚や感情を置き去りにしてしまっている人が多いような気もする。

以前瞑想会でまりこ先生が言っていた。桜の花の色はどこから来るのか。それは桜の木の幹であって、花びらそのものではない。言葉というのは「言の葉」のことだ。葉はどこから実るのか。それも木の幹からだ。

木の幹は、自分自身だと思う。自分自身の感情、感覚。それがこの世の中に現れたものが言葉なのではないだろうか。

瞑想中にふと、湧いてくる言葉は自分の感情や感覚から溢れ出てくる本当の自分の言葉なのではないかということ。そんなことに気づいた、ななくりの湯体験だった。

2. 今日の瞑想〜2022.3.27 Sun 6:30〜(20min)

朝、陽の光が差し込んで目が覚める。小鳥の囀りも聞こえる清々しい朝。朝っぱらから階下で男女が言い争いをするような声が聞こえるけれど、気にしないことにしよう。

今日の瞑想音楽はこれ。


早速瞑想開始。昨日と同様、細部ではなく広く俯瞰的に観察をするようにした。頭の中心に意識を置いて、呼吸と身体を観察。それから瞑想に集中。鳥の声と波の音を聴いていると頭の中がぼんやりとしてくる。リラックスしている感覚。


いつしか言い争う声もなくなって、穏やかな時間が流れる。アラームと共に瞑想終了。


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