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めいそう日記Ver2〜Day250:見えていても見えないもの


1. 瞑想小咄〜見えていても見えないもの

私たちには五感がある。意識していなくても、当たり前のように五感を使って、周辺のさまざまな情報を入手することができる。目で、耳で、鼻で、口で、肌の感覚で。さまざまな情報を入手しながら、私たちは一瞬一瞬を生きている。

当たり前のように五感を使っていると、それが「普通」になってくる。普通になってくると、情報を重視しなくなってしまうように思う。たとえば、初めて外国に行った時は、目に映るもの全てが新しく、あちらこちらへと目線を向けて、匂いを嗅いで、その土地のことをもっと知ろうと五感をフル活用していたはずだ。

これが慣れてしまうと、積極的に五感で感じなくなっていく。もはや当たり前のことなので、五感をフルに使う必要がなくなった、といってもいいかもしれない。動物の本能として、新しい場所に来たときはその場所が安全であるかどうかを確認するために、五感をフル活用しなければ判断できない、という理由はあるかもしれないが。

とにかく、当たり前の中に身を置いていると、五感が鈍ってくる。五感自体は正常に働いているのだろうけれども、頭の中に入ってくる情報を遮断してしまうようになる、といった方が正しいかもしれない。

私たちは、無意識的に五感を使っているものの、情報の全てを理解しているわけではないということだ。たとえ五感では「見えて」いても、「見えて」いないものがある。「見えて」いても自分の中で「認識していない」とも言える。「認識していない」情報の中に、自分にとってとても有益なものがあったかもしれないのに。

最近、俳句を作ることに慣れてきたような気がする。これまでは、季語を見て、そこから俳句を捻り出すのが私の俳句の作り方のスタイルだった。最近は、日々の生活の中のふとした場面で、心が動いたことを俳句にしようと思い始めた。

以前、俳句の会の中で先生が「日常の中で、ほんの些細な心の動きを俳句にするといい」とおっしゃっていた。例えば、先生は以前机の上に置いていたメガネが光ったその瞬間に心が動き、それを俳句にしたのだとか。特別なことでなくてもいい。ただふと、自分の心が動いた瞬間を切り取って、それを俳句にすればいい。俳句は、そうやって作るものだということを学んだのだった。

しかし、その「ふとした心が動いた瞬間」というのは、意識しなければわからないものだ。日々何気なく過ごしていると、心の動きや五感の働きさえわからなくなってしまう。だからこそ、心や五感に意識を向けることが大切なのだろう。ぼんやりとしていては、大切な瞬間を逃してしまうかもしれないのだから。

私たちの目には、見えていても見えていないものがある。自分が意識をしなければ、そうなってしまう。大切なものを見逃さないためにも、五感や心の動きに意識を向けることを忘れないでいたいものだ。

2. 今日の瞑想〜2024.4.12 Fri 6:15〜(15min)

金曜日の朝。今日で一区切りなので頑張ろう。早速名瞑想を。

今日の瞑想音楽はこれ。

横になったままでスタート。身体から不調を取り除くようなイメージを持つ。昨日はやや深酒だったので、身体が少し重い。それを取り除く。最近の瞑想はそのまま寝てしまうことが多かったのだが、今日は最後まで意識を保って瞑想できた。

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