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めいそう日記Ver2~Day332:夏の訪れ


1.瞑想小咄~夏の訪れ

7月に入って、急にうだるような暑さの毎日が続くようになった。こう暑いと、さすがに「ついに夏が来たか」という気になる。そういえば、セミの鳴き声を聞くようになったのも7月に入ってからだっただろうか。彼らは明確に、夏が来たことを否応なしに私たちにわからせてくれる。

ちなみに、先日私の職場環境を夏に対応するために急いで整備した。自宅の書斎にはクーラーがないため、これまでは自然風でしのいでいたのだが、つい先日PCを触っていたら、突然動作がおかしくなってしまった。その原因はおそらく暑さ。無機物すら狂わせるこの暑さは、人にまで影響を及ぼすのは道理と言えば道理だろう。

仕事をしながら毎回汗だくになってしまう。このままでは人にも機械にもよくないと思ったので、人には扇風機を、機械には冷却ファンを導入した。とはいえ、部屋の空気の温度自体が下がるわけではないので、気持ち涼しくなった、くらいの体感の変化なのだが。

さて、最近夏の訪れを感じさせることが他にもあった。この発見は、多分私の中で初めてのことだったと思う。

ある日、伊勢神宮の杜の中を歩いていた時のこと。空中に葉っぱが一枚浮かんでいた。よくよく見てみると、蜘蛛の糸に引っかかった葉っぱだったのだ。それを見て、一句詠んでみた。「空中に葉を捕らへたる蜘蛛の糸」。これは先生の添削済み。

その時手元に歳時記がなかったので、ちゃんと季語が含まれているのかどうかわからなかったのだが、後になって調べてみると、ちゃんと「蜘蛛」は夏の季語として収録されていた。

また別の時。川べりを歩いていた時のこと。白鷺がすーっとやってきて、水面に滑らかに着水した。なんとも涼やかだったので、一句詠んでみた。「白鷺の水面に脚を滑らせて」。ちなみに、先生が添削するとこうなった。「白鷺の脚ゆつくりと水を出る」。なるほど確かに、先生の方が動きや情景が目に浮かぶような気がする。

ともあれ、この時も歳時記が手元になかったので作った後に調べてみた。すると、「白鷺」が夏の季語だったのだ。

自然と詠んだ句の中に、意識したわけでもなく季語が使われているということに不思議な気持ちになった。それと同時に、昔の日本人は季節の主役たちをよくよく観察していたのだなと感心する。

季語というのは、その季節を表すものなのだろう。それこそ現代では暑くなれば夏、という短絡的な結び付けをすることが多いが、昔の日本人は小さなものや物言わぬものにスポットライトを当てて、季節の変化やその季節「らしさ」を感じていたのだろう。

季節の変化を言葉から探るのも、なかなかに趣深いものだ。

2. 今日の瞑想~2024.7.9 Tue 6:15~(15min)

火曜日の朝。昨日は脱水症状になりかけたので、昨日の晩は警戒しつつ寝た。幸い気温は下がっていたようなので、心地よい眠りになった。さて、瞑想しよう。

今日の瞑想音楽はこれ。

姿勢を整えて座る。リラックスしつつ、でも雑念は湧いてきつつ。ゆったりとした気持ちで、時間を楽しむ。15分間、いい時間を過ごすことができた。

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